広場としての中島公園-1

札幌市民を引き寄せる歴史の汀(みぎわ)

菖蒲池から藻岩山を望む。景観の骨格は、大正期から変わっていない

公園や広場は、図書館と同じように人々が匿名のまま集い、偶然の出会いや学びを得る自由の場だ。札幌の中島公園は、市民が自分たちらしさや都市としてのふるまいを育む空間として、道都の歴史とともにありつづけてきた。この公園の昔日をスケッチしてみよう。
谷口雅春-text&photo

市民の思い出と祝祭の空間

もう十数年前のことだけれど、詩人の新妻博さん(1917〜2012)に、音楽をはじめとした戦前の札幌の文化状況について話を聞いたことがあった。大正半ばに札幌で生まれた新妻さんは、学業を終えると、中島公園にあった日本放送協会札幌中央放送局(現・NHK札幌放送局)に入局して、ラジオ放送の世界に入った。1936(昭和11)年のこと。東京勤務のあと、陸軍に召集されて大陸のノモンハンで戦場に立ったが生還。太平洋戦争中に再び札幌に戻った。戦後は北海道放送(HBC)の立ち上げにも関わり、放送人としてキャリアを積みながら、詩作活動をつづけていた。

新妻さんの実家は中島公園のそばで葡萄園を営む農家だった。だから公園が遊び場なのだが、音楽好きの新妻少年は、軍楽隊の行進が大好きだった。軍楽隊は、札幌駅から停車場通り(現・札幌駅前通)を南へ下り、すすきのを抜けて中島公園に入って、菖蒲池の南にあった奏楽堂という小さな野外音楽堂に至る。子どもたちは夢中になって隊のうしろをついて歩いたという。小樽に大きな軍艦が入ると、海軍の軍楽隊がここで演奏を披露することもあった。ステージにはドーム型のデコラティブな屋根がかかり、まわりを木造の座席が囲んでいた。奏楽堂はもともと、北海道開道50年を記念して中島公園を主会場に開かれた(1918・大正7年)、北海道博覧会の施設だ。1997年に開館した札幌コンサートホールKitaraの大ホールの入り口の天蓋には、この歴史を刻印するために奏楽堂のデザインが引用されている。

中島公園の奏楽堂(左)と拓殖館(大正末の絵はがき)(札幌市公文書館所蔵)

札幌に電車が走ったのは、この博覧会がきっかけだった。多くの動員が期待できる大イベントに合わせて、道都の新しいインフラにふさわしく、それまで市内を走っていた馬車鉄道を電車に換えようという気運が高まる。そこで事業家助川貞二郎が起こした馬車鉄道は札幌電気軌道と名前を換え、電車事業に乗り出した。もともとこの馬鉄は、石山から石材を搬出したり、定山渓方面に旅客を運ぶのが目的だった。電車となった路線は、札幌停車場(現・札幌駅)と中島公園を結ぶ停公線が軸で、そこから南4条線(南4条の西3丁目から東3丁目)と、一条線(南1条の西15丁目から東2丁目)が伸びていた。残念なことに軌道の幅は、予定していた車輌の調達が博覧会に間に合わなかったために計画から縮小されて1,067mmとなり、先行していた函館の電車(1,372mm)よりも狭くなってしまった。停車場通を南下した停公線は、そのまま直進するのではなく南4条を東に曲がって1丁だけ進み、西3丁目の角から中島公園に向かった。なぜ直進しなかったかというと、当時は正面にすすきの遊郭があり、その土塁を突き抜けて電車を通すのが風紀上憚(はばか)られたからだ(博覧会開催に合わせて遊郭は白石に移転がはじまっていた)。

新妻さんの話ではほかに、停公線が曲がる角(南4 西3)にあった映画館、松竹座で行われた、札幌新交響楽団の演奏会のことが印象深かった。1929(昭和4)年に開館した松竹座は東京の松竹の直営館で、北海道で最初の全席椅子席のシアター。全道一の規模と豪華さを誇った名物館だった。映画のほかにもさまざまな催しが開かれたが、新妻さんがふれたのは、1937(昭和12)年5月に行われた、建築家田上義也らが創立した札幌新交響楽団のデビューコンサートだ。この楽団は札幌交響楽団の源流のひとつにも位置づけられるオーケストラで、お披露目ではヴァイオリニストでもあった田上が指揮台に立って髪を振り乱しながら、ベートーヴェンの「運命」の第1楽章が演奏された。新妻さんは、演奏自体はなにしろ当時のアマチュアのレベルなのでハラハラして聴くほかなかったが、とにかくベートーヴェンの名高い交響曲の生演奏を札幌で聴けたことに感銘を受けた。松竹座は1970(昭和45)年3月に寿命を終え、跡地にはいま第3グリーンビルが建っている。

新妻さんのエッセイ集『回想のフローラ』(亜璃西社)には、電車や中島公園をめぐる話がいくつか登場する。昭和初期の札幌都心にはまだ開拓以前から豊平川扇状地にそびえていたハルニレの巨木が点在していて、電車の軌道はそれを避けて敷かれていたこと。豊平川の河川敷はヤナギやハンノキが鬱蒼として、ヤマメがいくらでも釣れ、秋にはたくさんのサケが上がったこと。実家の葡萄園の南端には湧き水があってザリガニが獲れたし、大きなハンノキにはサルナシ(コクワ)がからんで、それを求める野鳥が集まった。戦後すぐの松竹座は進駐軍に接収されてマックネア劇場という名前になり、NHKの放送用専属である札幌放送管弦楽団なども出演するようになる。

中島公園の冬の名物だった「氷上カーニバル」(昭和元年の絵はがき)(札幌市公文書館所蔵)

文化とスポーツの揺籃(ようらん)として

開道50年の博覧会(1918)が開かれたり、第1回の北海道美術協会展(道展)の会場が公園内の農業館になる(1925)など、中島公園は札幌の文化芸術の象徴的な場所としてあった。それ以前の明治期には、エドウィン・ダンが札幌で最初の本格的な競馬を行ったり、最初の花火大会が日露戦争の勝利を祝って催されたこともあった。
スポーツにおいても1920年代から、菖蒲池は冬にスケートリンクが作られ、夏には水泳場となった。やがてこのスケートリンクから、戦後国際的に活躍する内藤晋(スピード)、有坂隆祐(フィギュア)といった選手も育っていく。札幌スケート協会が、毎年シーズン滑り納めの紀元節(2月11日)に開いた氷上カーニバルは大人気で、新妻さんも前掲書で、市民が思い思いに趣向を凝らす仮想パレードや、巧みなフィギュアスケーターを懐かしみ、スピーカーからはヨハン・シュトラウスのワルツやワーグナーの行進曲などが流れ、夢のような華やかな情景が繰り広げられた、と書いている。札幌を舞台にした黒澤明の映画『白痴』(1951)にこのカーニバルの実際の情景が使われていることは、札幌のまちネタでよく言及されるエピソードだ。
園内で行われたスポーツではほかに、テニスやホッケー、ラグビーもあり、それぞれの第1回全道大会が、中島公園で開かれている。北海道博覧会の跡地の一画には、その後アマチュア野球のメッカとなる中島球場が作られた。
そして新妻さんが職を得た日本放送協会札幌中央放送局も、1928(昭和3)年から中島公園にあり、北海道の放送史もまた、中島公園から始まっていたのだった(送信所は月寒)。

中島公園の歴史は、それまでは山鼻村だったこのエリアが、北海道庁が設置された1886(明治19)年、札幌区に編入されて中島遊園地となったのがはじまりだ。その前史は、豊平川水系から伐り出された木材を、創成川を使って開拓使の器械場にある木挽(こびき)工場に入れるまでの調整をする貯木場だった。器械場があったのは、現在の創成川イースト。明治40年代の札幌市街図を見ると、中島遊園地には四角い池がふたつ並んでいて、まだ貯木場の面影を残している。その後貯木に使われた池が拡張されて現在につづく菖蒲池が掘られた。このときに出た土砂で作った築山が札幌市天文台がある岡田山で、これは当時西側にあった岡田花園にちなんでつけられた愛称だった。

いつの時代も人は水辺に惹かれ、水辺に集う。中島公園が札幌の市民生活に欠かせない大切な思い出と祝祭の場となっていったのには、藻岩山を望む立地と菖蒲池の存在が鍵を握っていたのだと思う。菖蒲池のほとりから眺めることができる藻岩山の稜線は、いまも池が掘られた大正期から変わっていない、札幌中心部の貴重な景観だ。札幌コンサートホールや道立文学館をはじめとした施設の建設や公園のレイアウトは変わっても、中島公園には、その基盤では移ろうことのない佇まいが息づいている。

戦前にここで行われた大きな行事としては、市制施行の祝賀会もあげられるだろう。1922(大正11)年8月1日のこと。殖民都市として人工的に作られた札幌は、まだ自治の範囲が狭い「区」という行政形態だったが、このときから府県なみの市制が施行されたのだった。北海道では同じタイミングで、函館、小樽、旭川、釧路にも市制が敷かれた。この時点の札幌の人口は12万7千人、2万3000戸。中島公園では、昼は旗行列、夜にはちょうちん行列が繰り広げられ、新たなステージに上ったわがまちを祝うために、多くの人々が集まった。

電車が市営になったことを祝した花電車。1927年12月(札幌市公文書館所蔵)

初代札幌市長高岡直吉から見る北海道

しかし祝賀の時点ではまだ市長は決まっていない。普通選挙が行われる前の時代だから、市会(議会)の最初の仕事は、初代札幌市長になってほしい人物を議員が選ぶことだった。市会と市民は、市制施行を好機としてまちの大きな発展を望んでいた。意中の候補者選びの投票が市会で行われ、その結果を国に認めてもらう手続き(上奏裁可)が進められる。そうして選ばれた初代の市長が、札幌農学校3期生の高岡直吉(ただよし)だった。

高岡直吉は、石見の国津和野藩士の長男。ホイラー、ペンハロー、ブルックスなどの薫陶を受けて、札幌農学校3期を主席で卒業した俊英だ。一期先輩には、内村鑑三や新渡戸稲造、宮部金吾らがいる。卒業後は山口県庁で勧業の仕事をして、28歳で北海道庁へ。増毛や宗谷、根室、千島などの郡長を歴任した。札幌の本庁にもどると殖民課や拓殖課、小樽支庁長などを務める。21年間の北海道生活で、第二のふるさととなったこの島の成り立ちを深く身につけることになった。その後49歳からの10年間は、宮崎県知事、島根県知事、鹿児島県知事を歴任。鹿児島では桜島大噴火(1914)のあとの復興に取り組んだ。法科ではなく農学校出身の官吏がこれだけの県知事職を見事に勤め上げたことは、直吉の実力と人柄を示すものだったといえるだろう。札幌市では、初代市長として高岡に勝る候補はいないと運動した。高岡は県知事のあとは福岡県の門司市長になったが、ちょうどその任期が終わるのを待って市長に迎えることができたのは幸運だった。高岡はすでに64歳だった。

大正から昭和へ。病のために2期目の途中で惜しまれながら引いたのだが、高岡は5年間札幌市長の職にあった。最も力を入れたのは、電車の市営化だ。開道50周年北海道博覧会に合わせて民間企業が立ち上げた電車事業を、高岡らはまちの未来を見すえて公営化すべきだと考え、1927(昭和2)年の暮れに引き継ぎを終える。市営を祝う花電車が師走の道都をめぐり、市民は新たな時代の幕開けの高揚感をこぞって味わった。大通西1丁目にあった豊平館(1958年に中島公園に移築)の北側に札幌市公会堂を建てたのも高岡市長の時代。のちの札幌市民会館の源流だ。先にふれた新妻博さんは公会堂でよくクラシックの演奏会を聴いたが、「豊平館で宴会があると、料理のうまそうな匂いが館内に漂ってきて切なかった」と語っていた。

高岡には10歳下の弟がいる。兄直吉を追って札幌農学校で農業経済を学び、やがて北海道帝国大学第三代総長となる高岡熊雄だ。熊雄は母校の講師となった26歳のとき、北海道入植の可能性をさぐるためにやって来た、山口中学の同級生だった国木田独歩にアドバイスを与えている。国木田の「空知川の岸辺」は、そのときの体験をもとにした作品だ。津和野の人々は、人並みはずれた刻苦勉励を重ねて大きな仕事を成し遂げた高岡兄弟を敬い、まちの中心の通りを高岡通りと命名している。津和野はまた、哲学の西周(にしあまね)や文豪森鴎外を輩出したまちでもある。4万3千石の小藩だった地から、近代の多くの先駆者が生まれたことはとても興味深い。高岡熊雄の兄直吉は藩校養老館出身だが、藩校をはじめとした高い教育の理念と気運が満ちた土地なのだろう。そして若き日の高岡兄弟の目に、日本の新しい国土であった北海道がどのように映っていたのかを考えると、明治大正期の北海道の姿が、より奥行きをもって見えてくる。

高岡直吉の仕事では、道庁参事官の時代に取り組んだ北千島の踏査も特筆される。1900(明治33)年のこと。主幹として事業を動かした直吉の目的は、元海軍軍人で千島移住団を組織した郡司成忠の仕事と、当時中部・北千島から色丹島に強制移住させられていたアイヌの悲惨な状況、そしてロシアに接する北千島を調査することにあった。郡司成忠は1893(明治26)年、千島列島北東端である占守(シムシュ)島(北緯50度44分)で和人としてはじめて越冬を成功させていた探検家で、幸田露伴の実兄だ。

北方開拓という近代化の国策によって産み落とされた札幌のまちは、やがて曲がりなりにも自らの脚で立ち上がり、歩き始めた。中島公園の菖蒲池の汀(みぎわ)では、札幌が札幌となっていったそんな時代のかずかずの歴史物語が、現在のまなざしで繙(ひもと)かれ、未来のために読み込まれていくのを待っている。

ボートが木製だった昭和の時代(年代不詳)の着色絵はがき(札幌市公文書館所蔵)

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