広場としての中島公園-2 

中島公園から札幌の近未来が見える 

札幌にゆかりの深い山内壮夫の彫刻群が配置された中島公園の芝生広場

和人による北海道の内陸開拓がいよいよ本格的にはじまるころ。山鼻村にあったかつての貯木場とその周辺が、札幌区に編入されて中島遊園地となった。明治の終わりに中島公園と改称されたが、130年以上にわたってこの水辺と緑陰の空間が原型を維持していることは、とても貴重なことだ。
谷口雅春-text&photo

公園は世相のスクリーン

札幌市公文書館のウェブサイトでは、戦前からの札幌のようすを、新聞のスクラップでたどることができる。例えば1916(大正5)年10月。先の極東オリンピック予選で新記録を作った東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)の内田選手が、「秋冷の候にも関はらず中島公園の池中に於いて猛烈なる練習を重ね」ている、という記事がある。極東オリンピックとは、戦前に日本や中華民国、フィリピンなどが参加して開いていたスポーツ大会だ。記事では加えて、内田選手は、いっしょに泳ごうとする子どもたちがじゃまで困っている、とつづく。現在のアスリートたちの世界と比べると、笑いたくなるようななんとも牧歌的な情景だ。
1919年1月には、菖蒲池の氷を1尺×2尺(30×60センチ)角柱にして盛んに切りだし、区立病院へと運んでいる、という記事。札幌の冬は、いまとは比較にならないほど寒かった。1920(大正9)年9月には前回もふれた軍楽隊の記事があり、奏楽堂のまわりには立錐の余地もないほど人があつまって、海軍軍楽隊が、「ドナウ川のさざなみ」や「カルメン」、あるいは長唄「越後獅子」などを演奏している。

満州事変(1931年)以降、日本は中国東北部への侵攻を強引に進めていたが、1933(昭和8)年1月には、満州と中国の国境域の要衝、山海関での戦闘で戦死した兵士たちの慰霊祭が行われている。月寒の歩兵第25連隊の大尉以下4名だ。1936年11月には全道軍用犬訓練大会が開かれ、戦時下の1944(昭和19)3月には、食糧増産のためにこの春から大通公園や道庁前庭、中島公園の一部も菜園にするので申し込みがはじまった、という記事がある。中島公園が掘り起こされて、イモやカボチャの畑になった時代。戦時中は市民が楽しめる行事は影をひそめ、すでに43年には第五方面軍憲兵司令部がかつての農業館に設置されていたので、市民が自由に公園に入ることができなくなっていた。

戦後になって公園は、ようやくまた市民に開放される。農業館は、創立されたばかりの札幌文科専門学院が、校舎として札幌市から借り受けた。現在の札幌学院大学だ。軍の司令部から若者たちの学び舎に、という歴史の流れは、日本が取り戻した自由な社会を象徴するような展開といえるだろう。
1949(昭和24)年には中島球場のスタンド工事が竣工して、園内にはテニスコートやプールも整備されていく。1954(昭和29)年には、年配の札幌市民には大相撲やコンサート、そしてプロレス会場としてなつかしい、中島スポーツセンターがオープンしている。
1958(昭和33)年には、北海道大博覧会がおよそ2カ月にわたって開催され、大規模なパビリオン群と、のちに「こどもの国」となる遊園地が多くの来場者を迎えた。博覧会が終了すると、噴水のある大規模な花壇、百花園が整備されて、いまもこの公園に欠かせない山内壮夫の彫刻群がレイアウトされていく。
中島公園に札幌まつりの露店が並ぶようになったのは、サーカス小屋などが創成河畔から移された、1962(昭和37)年からだ。

1964年7月の北海道新聞には、「知事道立図書館に“待った”」という記事がある。実は園内のかつて拓殖館があった場所に、道立図書館を新築しようという計画があったのだ。当時の道立図書館は札幌市北1条西5丁目にあった(現・北菓楼札幌本館)が、1926(大正15)年築で図書館としてはすでに狭く、道立の名にふさわしい新たなものを、という声が高まっていた。基本設計は終わっていたが、ここで町村金五北海道知事が、もっと広い場所が良い、と鶴の一声。結局、現在の江別市文京台に建てられることになる(旧図書館はその後北海道立美術館三岸好太郎記念室となった)。1969(昭和44)年には戦前からあったプールが大改修されて、競技用公認プールとなっている。

中島公園の緑陰は札幌都心のオアシス

中島公園はこれまでに3度大きな改造を経験している。はじめは、「開道50年記念博覧会」があった、1918(大正7)年。2回目はその40年後の1958(昭和33)年。戦後の日本経済の上げ潮にのって、北海道大博覧会が開かれた。このとき大通西1丁目から移築された豊平館や、パビリオンのひとつだった天文台はいまも園内の顔となっている。そして3回目は、1997(平成9)年。札幌コンサートホール・Kitara建設に伴ってこどもの国が円山動物園に移転して、百花園や広場が閉園となって公園のレイアウトは大幅に変更された。このときから公園は、祝祭的な催事よりも文化的な機能をベースにした、都心のオアシスの性格を強めていく。
山内壮夫の彫刻はいま、白セメント製の4点が百花園跡の芝生広場に配置され、もっとも大きかった「森の歌」は、強度を増すためにブロンズにあらためて鋳造されて、児童館前の広場に設置されている。
「森の歌」は、母に抱かれた子どもや鳥やシカ、ウマなどの動物たちが複雑に組み合わされて生命の多様さと調和を讃える傑作だが、驚くべきことに、いちばん上の位置でKitaraの方角を向いている少年は、キタラ(古代ギリシャの竪琴)を抱えている。これは偶然なのか、担当部署の周到な仕事だったのだろうか。

山内壮夫の「森の歌」。キタラ(竪琴)を持った少年が札幌コンサートホールkitaraを
望んでいる

青春が行き交った緑陰

いつの時代も水辺と緑陰は学業のための最良の環境だ。札幌文科専門学院は戦後すぐに旧農業館を使って開学したが、公園のほとり、現在のパークホテル(南10西3)の土地にはすでに1899(明治32)年には、幌南学校という学び舎があった。以来この場所ではいくつもの学校があゆみを刻んでいくことになる。

幌南学校は、越後出身の実業家山崎孝太郎が、貧しい境遇の子どもたちに無料で初等教育をさずけたところで、札幌の遠友夜学校や函館の鶴岡学校と並ぶ存在だった(当時は尋常小学校に通うのにも授業料が必要だった)。山崎はいくつかの小売業を経て精米や醤油製造で成功して、財をなす。今日の商工会議所につながる組織を起こして副会長となり、私財をつぎ込んでこの学校を起こし、多くの公職にもついた。しかしやがて本業が傾き、晩年は不遇だったという。山崎が新潟から札幌に渡ったのは、29歳だった1878(明治11)年。そこから20年あまりで大きな成功をおさめ、自力で得た資産を地域社会のために費やした。函館や小樽のような商業都市とはちがう、徹底した官のまち札幌において、自主自律のフロンティア・スピリットというイメージはリアリティのないものだけれど、新天地での逆境や可能性を糧とする、山崎のような人が少なからずいたのも事実だ。

幌南学校はおよそ450人の卒業生を送り出して7年で閉校となった。資産に余裕がなくなった山崎が、公立の尋常小学校の授業料が無料となったことにタイミングを合わせて閉校を決めたのだった。そのあとに札幌区立実科高等女学校が、南1条東6丁目からこの地に移転してくる。のちの札幌市立高等女学校、現在の札幌東高校だ。1922(大正11)年に札幌市に市制が布かれたことは前回の稿でふれたが、それにともなって区立実科高等女学校は、市立高等女学校となった。
1923年7月の北海タイムスには、女子職業学校の名で開校して実科の名を冠するようになったこの女学校が、単なる高等女学校になるのは特色が薄れてもったいないではないか、という論考が載っている。この年の生徒数は727人。うち305人が市外からの生徒で、彼女たちは寄宿舎に暮らしていた。入試の倍率は3倍近い人気校だ。中島公園は札幌の内外から集まった女子たちの青春の舞台でもあった。

ちょうどこのころ(1924年5月)、宮澤賢治が、勤務する岩手県の花巻農学校の修学旅行で2年生20数名を引率して来道。札幌では北大植物園や麦酒工場、帝国製麻会社、そして中島公園を訪れている。賢治が農学校に提出した報告書『修学旅行復命書』によれば、生徒らは慣れないボート遊びに歓声をあげ、池に臨む奏楽堂で歌を歌った。賢治は「公園音楽堂にて歌唱す。旅情甚切なり」、と書いている。彼らは市立高女の生徒たちとすれ違ったり出会ったりしただろうか。もしかしたら言葉を交わしたり、いっしょに歌を歌ったりはしなかっただろうか。そのあと一行は、にぎやかな夜の狸小路をそぞろ歩きながら、宿泊先の、停車場通(現・札幌駅前通)の山形屋旅館に帰った。

戦後は、市立高女の校舎の一部を使って、新制の市立第五中学校が開校して(1947年)、翌年には中島中学と改称される。そして市立高女は1948年に学制改革によって市立第一高校、そして男女共学の札幌東高校となったが、1953(昭和28)年に現在地(白石区菊水)に新築移転した。中島中学も、1964(昭和39)年には電車通沿いの現在地(南12西7)に新築されて移転となった。

札幌のホテル業界を駆動させた札幌オリンピック

時代のベクトルは、戦後復興から高度成長へ。いくつもの学校の生徒たちが行き交った公園のほとりでは、新たな物語がはじまる。主題は観光だ。
1951(昭和26)年、札幌の戦後初代の公選市長高田富與(とみよ)は二期目にのぞむ際の抱負のひとつに、「札幌を国際観光都市にふさわしいまちにする」ことをあげた。この年には羽田・千歳間に日本航空が定期便を就航。翌年道都は、日本観光連盟から国際観光ルートの北海道基地に選ばれる。1954(昭和29)年には世界スピードスケート選手権大会が円山運動場の特設リンクで開催され、同じ年に第9回国体冬期スケート競技大会、翌55年には第33回全日本スキー選手権大会(札幌市、富良野市)が成功を収めた。こうした盛り上がりがやがて、今度こそ札幌で冬季オリンピックを、という気運を育んでいく。札幌には戦前(1940年)、日中戦争の影響で中止された幻の冬季五輪大会があったのだった。

しかし当時は、旅の宿と言えば旅館のこと。外国人ツーリストがくつろげる政府登録ホテル(国際観光ホテル整備法の規定により政府登録を受けたホテル)は、全道で札幌グランドホテル一館だけだった。1961(昭和36)年に、札幌市議会が冬季オリンピック開催都市に再び立候補する決議を採択すると、いよいよ都市ホテルの増設が必要となる。
そこで町村金五北海道知事、原田與作札幌市長、広瀬経一北海道拓殖銀行頭取らは、当時日本の代表的な事業家のひとりだったリコー三愛グループの創始者、市村清を札幌の料亭に招き、ホテル建設を要請した。市村は適地を周到に調べ上げた上で、中島中学校跡地の払い下げを求める。そして隣接する割烹西の宮の土地も買収して、この一等地に東北以北最大のホテルを建てることにした。それがホテル三愛。現在のパークホテルだ。
設計は、戦前から日本のモダニズム建築のリーダーのひとりであった坂倉準三。ホテルは、札幌市民がそれまで見たこともない洗練された空間と設備が整えられ、1964(昭和39)年7月に開業を迎える。中島公園を訪れ、公園との一体感をもった中庭と深い青色の有田製のタイルで覆われた外観が目に入るだけで、人々はそのたたずまいに魅了された。

しかし投資がかさんだぶん利益は上がらない。不運なことにリコー本体の経営危機もあり、開業からわずか2年あまり、市村はホテルの経営を、北海道炭礦汽船社長で北炭観光開発(のちの三井観光開発)の創業者である萩原吉太郎に譲ることになる。北炭観光開発は札幌グランドホテルを経営していたから、北海道随一のホテル運営のノウハウがあった。著書『一財界人、書き留め置き候』で萩原はこのいきさつを、リコーの市村清とフジテレビの鹿内信隆から申し込まれ、町村金五知事、原田與作札幌市長、黒澤酉蔵雪印乳業相談役、平田敬一郎開発銀行総裁、田実渉三菱銀行頭取らからも強く勧められた、と書いている。このホテルが、北海道の政財界にとっていかに重要なものであったのかがうかがい知れるだろう。ホテル三愛は札幌パークホテルとなり、札幌グランドホテルから移った林英夫支配人のもとで営業体制が刷新されていく。パークとはもちろん中島公園のことで、同ホテルの20年史(1985年)のタイトルは、『中島公園のほとりで』。

札幌オリンピックの前年1971年2月、プレオリンピックが開かれ、札幌パークホテルが外国人の選手村になった。本番の選手村は真駒内で建設がはじまっていて、選手村食堂の厨房をあずかることになるのは、全日本厨房士協会北海道支部所属の調理師たちと、東京からの助っ人シェフたち。札幌では札幌グランドホテル、札幌パークホテル、札幌ローヤルホテルのシェフたちがリーダー役を務めた。厨房士協会北海道支部では、本番に向けて研修会や講習会を重ねたほか、市内のデパートで「世界の料理まつり」を開催。オリンピックを絶好の機会として、当時はまだなじみが薄かった本格的な西洋料理の普及をはかる活動が展開された。札幌オリンピックがホテル・飲食業界に与えたインパクトが想像できるだろう。

パークホテルをのぞむ景観が、いま作りかえられようとしている

MICEが動かす札幌の近未来

札幌パークホテルの運営はその後三井観光開発から札幌グランビスタホテル&リゾートとなり、同社は企業再生支援機構などの支援を受けたあと、2015年にサンケイビル(本社東京)の傘下に入った。石炭の時代の盛衰を象徴する北海道企業である北炭の債務をつねに負っていた三井観光開発にとって、バブル崩壊後の市場の変化についていくことは容易ではなかった。
この地で山崎孝太郎が幌南学校を開いてから今年で120年。パークホテルは創業55年になるが、同社は全面的な建て替え計画を発表して話題を呼んでいる。とりわけ、それが札幌市が進めるMICE(マイス)施設と一体となった再開発になることに注目が集まっている。

MICEとは、会合(Meeting)、企業などの報奨旅行(Incentive Travel)、国際会議や学術会議(Convention)、展示会や見本市(Exhibition/Event)の頭文字の組み合わせで、価値ある催しや魅力的な商機を提供することで大勢の人々を集める、大都市の新しいエンジンとなる事業手法だ。ビジネスマンや研究者、政治家、事業家などが目的をもってやって来ると、その目的の周辺でもさまざまな出会いや学びがあり、さらには活発な消費活動が期待できる。一般の観光客に加えてこうした層を呼び込むことができれば、都市の経済は勢いを得ていくだろう。MICEの分野では、近年ますます都市間の競争が盛んになっているのだ。
札幌市が計画しているMICE施設は、パークホテルの建物と敷地を所有するグランビスタホテル&リゾートとサンケイビルが札幌市と協議を重ねて、新たなホテルと直結して建設する。完成後は市が施設の床や土地を買い取る仕組みで、2025年度の開業予定だ(ホテル棟は2023年にヒルトン札幌パークホテルとして開業予定)。350室規模のホテル棟は現在の広い駐車場の一画に建てられ、5階建てのMICE施設はその南側、いまホテルがある側になるという。南側に低層棟を配置して屋上を緑化することで公園との一体感をかなえて、地下鉄中島公園駅と直結する。
札幌市には東札幌に札幌コンベンションセンターがあるが、稼働率は高いものの、現在では規模がやや足りず、国際会議などで求められることが多い展示場はない。周辺に宿泊施設が少ないこともあって、大きな国際会議の多くは、昨年9月で閉館した「さっぽろ芸術文化の館」(北1西12)や大型ホテルが集まる西11丁目地区で開かれてきた。中島公園のほとりでは、約2000席のメインホールや4000平方メートルの展示場を備える。周辺施設も含めて、大規模な国際会議にふさわしい1万人規模の会議にも対応できるという。

札幌市経済観光局のMICE推進担当の奈良係長は、MICEの経済的な価値についてまず、夏のオンシーズンに片寄っている札幌への入り込み数を、通年で底上げできる、と言う。
「MICEは足腰の強い経済基盤をつくります。札幌には、高度な都市機能と北海道の自然が近接していて、魅力的な食もある。また、北海道大学を中心に学術的な底力やネットワークもある。他都市に比べて札幌は、そうした潜在力をこれまでは十分に活かし切れていなかった面があると思います」
同じくMICE推進の施設設備担当の山田係長は、この施設を核にして、一帯への民間投資を呼び込みたい、とも語る。周辺には、そのための空間的な余地がある。
「札幌駅と中島公園をまっすぐに結ぶラインは、古くからの重要な都市軸です。MICE施設を都心の南端と位置づけて、これからのまちづくりを刺激していきたいと考えています」

幕末に箱館奉行所が石狩に出先を設けたころ(1858年)。太古からのアイヌの営みのほかには、札幌には2戸の和人しか定住していなかったといわれる。石狩役所に豊平川の渡し守を命じられた、吉田茂八と志村鉄一だ。それからわずか160年でこの土地の人口は、全国4位の196万人にまでふくれあがった。激しく変容してきたまちで、その移ろいに呼応しながら、中島公園は機能と表情をさまざまに変えてきた。しかし一方で、その地形の骨格や、歴史の中の位置づけは変わらなかった。
この公園の歴史と未来を考えると、生物学者福岡伸一が唱える「動的平衡」という状態が連想される。環境と生命は、同じ分子を共有する動的な平衡の中にある、という視点だ。札幌史の中でこの公園が特別な場所であり続けているさまは、多様に変容を繰り返しながら一定の恒常性を維持してきた、生命現象としての札幌の歩みそのものかもしれない。

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