それは、地下鉄平岸駅のある環状通から1本北に入った小路沿い、マンションの陰に隠れるようにひっそりと建っていました。案内してくれたのは、札幌建築鑑賞会の代表・杉浦正人さん。古い建物にまつわる歴史や物語を採集しながら町歩きを楽しむ達人です。
「この札幌軟石の建物はですね、昭和13年、平岸のリンゴ農家の方々が共同で建てたものです。1階がリンゴの貯蔵庫、2階がリンゴの共同選果場兼集会場でした。ほら、2階にくらべ1階の窓が極端に少ないでしょう?」
玄関は後から造られたもので、1階の大きな窓がかつての出入り口だそう。そう言われてみると、1階には小窓が一つしかありません。なるほど、温度変化を避ける工夫だったんですね。
この建物で喫茶店を経営する伊藤栄一さんにもお話を伺いました。伊藤さんは札幌市内に12店舗を展開するサッポロ珈琲館の代表取締役会長です。
「以前は沢田珈琲店というお店だったんです。25年前、経営者の沢田さんにこの石造りの建物の喫茶店にしたいと相談を受けて、改装を手伝いました。その時の思い入れがあったものだから、6年前かな、彼が店を辞めるというので、私が引き継ぐことにしたんです」
初めて見たときは物置になっていたそうですが、この石造りの建物の第一印象はいかがでした?
「いやぁ、ひと目で気に入りましたよ。石蔵は冷たいイメージがあるけれど、ここは非常に女性的に見えたんだよね。寄棟だからなのかなあ」
確かにシャープな三角形の切妻屋根より、四方向に傾斜のある寄棟屋根は、やわらかな印象がありますね。
では、改装にはどのような点に配慮されたのでしょうか?
「まず1階と2階に分かれていた空間を吹き抜けにして、光を取り入れるようにしました。内部の造作には木を多用して暖かみを出そうと思ってね。石は木と組み合わせると、ぐっと雰囲気がよくなるんです。それから、間接照明にもこだわりました。むきだしの軟石の凹凸がきれいに見えるので」
それにしても伊藤さん、サッポロ珈琲館には古い建物を再利用した喫茶店がいくつかありますが、わざわざリノベーションするのはなぜですか?
「だって古い建物は壊してしまったら最後、もう二度と建てられないじゃない。それに長い時間を経てきた建物には、不思議と落ち着く何かがあると思うんだよね」
実際、ここはコーヒーカップが空になっても、立ち上る気になれないくらいの居心地の良さ。外とは次元の違う時間が流れているように静かなのです。
「古いものを古いまま使うんじゃ能がないよね。古いものを今の時代にどうやって蘇らせるか。それには建物の雰囲気だけじゃダメで、音楽とか器とか全てが関わってくるのだと思いますよ」
ただ古いものが好き、ではなく、時代にあったスタイルに活かすセンスが求められるのですね。
さて、平岸地域は明治の時代からリンゴの生産が盛んで、戦前は「平岸リンゴ」の名でシンガポールやロシアまで輸出されていたといいます。
昭和23年生まれの伊藤さんも「平岸街道から米軍キャンプのあった真駒内までリンゴ園が広がっていた」記憶があるそうです。
しかし、昭和36年に豊平町が札幌市に合併されるころには急速に宅地化が進み、リンゴ園は姿を消していきました。
今は環状通の中央分離帯に植えられたリンゴ並木が、かつての隆盛をそっと伝えています。
札幌建築鑑賞会の杉浦さんはこう話します。
「リンゴの栽培は手間がかかり、病害虫の駆除も大変だったとお聞きしました。農家の方々は栽培方法を研究し技術を学び合う情報交換の場として、この集会場が必要だったのでしょう。そうした生産農家の熱意が結実した建物が残って、いまも多くの人に利用されているのは、素晴らしいことだと思います」
かつてリンゴの栽培方法をここで熱心に学んだ人々は、集会場が喫茶店に生まれ変わるなど想像すらしなかったことでしょう。
それでも、ここにはまちを愛する人々の思いが80年近く前から変わらずに満ちているような気がします。
Writer's eye
海外にもその名を知られた「平岸リンゴ」、当時の主流の一つが「旭」という品種でした。明治20年代にカナダから札幌農学校に寄贈された洋リンゴで、英語名はマッキントッシュ。そう、アップル社のパソコンはこのリンゴの名前にちなんで名づけられたものだそう。歴史は確実に現代へつながっていることを実感しました!
●サッポロ珈琲館平岸店
北海道札幌市豊平区平岸2条6丁目
TEL:011-814-0141
営業時間/9:00〜22:00 年中無休
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