函館の各界で活躍する函館人の心には、郷土の大先輩たちが生きている。
函館人が語る函館人の物語から、このまちならではの成り立ちやぶ厚い歴史が聞こえてくる。
1898(明治31)年〜1939(昭和14)年。岩手県盛岡市で育ち、早稲田大学野球部を経て、1922(大正11)年に「函館太洋倶楽部」へ入団。捕手兼監督として20年近く活躍した。1939(昭和14)年、札幌円山球場での試合中、頭部に牽制球を受けて2日後に死去。1959(昭和34)年、野球殿堂が創設されるとともに殿堂入りした。
昭和34年、野球殿堂が創設されると同時に、沢村栄治らとともに殿堂入りした函館人がいる。クラブチーム「函館太洋倶楽部」の捕手兼監督だった久慈次郎だ。
読売巨人軍の前身「大日本東京野球倶楽部」が誕生した昭和9年、主将として入団が内定していたにもかかわらず、大火に襲われた函館を離れることはできないと辞退した野球界のスーパーヒーローである。
この久慈次郎が主将を務めていたのが函館太洋倶楽部。「太洋」と書いてオーシャンと読む、ハイカラな名前のクラブチームだ。創部は明治40年。現存する社会人野球チームでは日本最古の歴史を持つ。
まだプロ野球がない時代、東京六大学野球でさえ当時から野球部があるのは慶應と早稲田の二つのみ。久慈はその早稲田で活躍し、卒業後の大正11年、函館太洋倶楽部に参加を要請され、函館で電力事業と路面電車を経営する函館水電に入社した。
娯楽の少ない時代、オーシャンの試合を見ようと、大勢の市民が球場に詰めかけた。なかでもとびきり人気だったのが、久慈次郎だった。盗塁走者を一人残らずアウトにする強肩で観客の歓声を集めた。
昭和6年と9年、2回にわたって行われた日米野球大会には、全日本選抜チームの主将として選出されている。いまなら侍ジャパンのキャプテンだ。
とくに昭和9年の大会では、当時17歳の沢村栄治とバッテリーを組み、ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグら大リーグの名選手を1点に抑える好ゲームをリード。途中からチームに合流した旭川育ちの剛腕投手、18歳のスタルヒンにも優しく声をかけたという。
この全日本チームが母体になって、後に読売巨人軍となる日本初のプロ球団「大日本東京野球倶楽部」が誕生した。もちろん久慈次郎も破格の待遇で参加を要請されたが、これを辞退した。
その年の春、函館が市街地の3分の1を焼失する大火に見舞われ、当時、久慈が経営していた運動具店も焼失。従業員やチームを放り出して函館を離れるわけにはいかないと考えたからだ。その意を汲んでくれたのだろうか、巨人軍は久慈の名を初代主将として歴史に刻んでくれている。
「都市対抗野球大会には優秀選手に与えられる『久慈賞』があります。だからオーシャン、イコール久慈次郎。どこへ行ってもついてまわる名前です」と言うのは、函館太洋倶楽部で28代目の監督を務める辻見典之さん、44歳。
偉大な先輩を持つクラブの歴史は、誇りでもあり、重圧でもある。
長い歴史の中で、クラブを取り巻く環境は大きく変わった。
かつては日魯漁業など大手企業が大学野球で活躍した選手を雇用し、オーシャンに送り込んでくれたが、いまは仕事の斡旋は皆無。選手が自ら仕事を探し、職場の理解を得なければならない。部費も自ら負担し、家族の協力も取り付けなければならない。
「夏は大会で仕事を休むことが多くなるので、冬の間、休日返上で仕事したり、同僚とシフトをやりくりしている選手もいます」と辻見監督。
いまは監督やマネージャー、コーチも含めて団員25人。若い選手が試合に来られないときは40代の監督やコーチが出場することもある。
「活きのいい選手を引っ張ってこられるチームなら、30代になれば戦力外かもしれないけど(笑)、オレらは逆に引き留める。もうちょっと頑張ろうぜって」
いまクラブにはホームグラウンドもない。函館大学の施設を借りたり、中学生シニアチームの練習場所をレンタルする状況だ。
辻見監督は「そんなんでよく続けてるな、と言われますけど…でも、やめられないんですよね」と苦笑した。
プロ野球を蹴った久慈次郎は、その後もオーシャンを牽引した。市民に請われて市議会議員に出馬し、ほとんど選挙運動をしないまま当選。市民球場の建設にも奔走した。
しかし、久慈に残された時間は少なかった。
昭和14年8月、札幌市円山球場での試合中、相手チームの投手に敬遠された久慈が1塁へ向かおうとしたとき、捕手が二塁走者に投げた牽制球がこめかみにあたり昏倒。2日後に亡くなったからだ。42歳だった。
函館市の千代台にある市営球場「函館オーシャンスタジアム」には、キャッチャーミットを構えた「球聖 久慈次郎」の像が立つ。
一昨年、北海道日本ハムファイターズ公式戦の前日には、栗山英樹監督が銅像にコーヒーを手向け脱帽して黙礼。翌日の試合では久慈と同じ岩手出身の大谷投手がプロ初完封を成し遂げた。
常に注目を浴びるプロの世界とは一線を画して、函館太洋倶楽部のシーズンも既に始動している。今年は110周年の節目にあたる大事なシーズン。4月のオープン戦から、5月の都市対抗野球北海道予選、7月のクラブ野球選手権と続き、さらに今年は北海道新幹線の開業記念として10月に「第1回北海道・東北地区交流クラブ選手権大会」の函館開催も予定されている。
岩手県の水沢駒形野球倶楽部が設立95周年を迎えた記念にオーシャンとゲームをしたいと、招待試合も申し込まれている。
「全国どこへ行っても必ず言われるんですよ。絶対にオーシャンをなくしちゃダメだって。確かに110年も続いているのは奇跡。オレらの代で消してしまうのだけはイヤだから、なんとか頑張ろうって」
函館ではオーシャンを応援しようと、商工会議所を中心に後援会が組織され、長年にわたって資金援助が続けられている。函館市からの補助金もある。
大昭和製紙、新日鐵、拓銀など、企業チームが消えていくなか、函館太洋倶楽部が一世紀を超えて存続しているのは、市民のサポートがあればこそだ。
辻見監督は言う。「オレたちはなんのために野球をやってるのか。選手にもよく言いますし、自分でも常に考えます」
オーシャンは、地域に支えられ、全国の野球ファンから存続を求められるアマチュア野球チーム。野球をする意味が確かにある。だから選手たちは今日も勝つために練習を続けている。
1971年札幌市生まれ。北海道工業高(現北海道尚志学園高)と函館大学の野球部で活躍後、1993年に函館太洋倶楽部に入団。函館市内の会社に勤めながら野球を続け、主将を経て2014年から監督。その間2010年には34歳の主力選手を突然の病で失う不幸を乗り越え、全日本クラブ野球選手権北海道大会で優勝。全国大会に出場している。