豊平川の伏流水は「地中を流れるもう一つの豊平川」といわれる。
日本清酒の「千歳鶴」を仕込む命の水は、札幌南部の山々から流れてきたこの伏流水。約200年の時間をかけて地中深く染み込んだ水は、酒造りに大敵な鉄分やマンガンが極めて少ない理想的な状態で、中軟水のほどよい硬度が微生物の働きをより活発にするという。
酒の仕込みに地下水を使う酒造会社は数多くあるが、日本清酒の「丹頂蔵」と名付けた醸造所では、自社の井戸でふんだんに得られる水を、酒米を洗ったり浸水させたりはもちろん、大量の機械類の洗浄用にいたるまで酒造りのすべてに使う。「私たちはこの場所から離れられないのです」と広報担当の櫛引はるかさんはいう。
ちなみにこの井戸は札幌市の災害用井戸にも指定され、いざというときは市内全域の飲料水をまかなうほどの規模を有している。まちの中心部に広大な敷地の醸造所を構えるのは大変なことだけれど、この豊かでうつくしい水は何物にも代えがたい財産だ。
ここで少し日本清酒の歴史をたどってみよう。
北海道で近代的な開拓が始まった明治の初頭、すでに道南では酒造りが興っていたものの、札幌の酒造りはまだほとんど見られない。明治2(1869)年、開拓使庁が設置され新しいまちづくりが進むと同時に札幌の人口はめざましく増加していった。
明治3(1870)年、日本清酒の祖となる柴田與次右衛門親子が石狩から札幌(現在の南1条西2丁目付近)へ移住。翌年に父親が亡くなり、明治5(1872)年に與次右衛門が米穀荒物商を開店し、ほどなくして、濁酒(どぶろく)の製造販売を始めた、という記録が残っている。
当時、近くを流れる創成川はいまより川幅が広く、石狩川口を遡航する船便に荷を積みおろしするいかだの水路となっていた。與次右衛門の濁酒は、創成川を上り下りするいかだの作業夫を相手に磯舟で流し売りされたという。開拓使の役人の間でもたちまち評判となり、與次右衛門は清酒醸造に取りかかった。札幌の酒造りの本格的な幕開けだ。
開拓使は明治4(1871)年から10(1877)年にかけて数多くの官営工場を作った。酒類ではビールと葡萄酒の醸造所を創成川の東、雁来通(現在の北3条東3丁目付近)に並んで設立。人々の生活に欠かせない味噌や醤油の醸造も周囲で次々に行われるようになる。豊かな水がそれらの製造と物流を支えたことはいうまでもない。
その後、明治30(1897)年には與次右衛門をはじめ醸造業者が集まり、「札幌酒造合名会社」(日本清酒の前身)を南3条東5丁目付近に設立。以来、この地で札幌の地酒が造り続けられることとなる。
現在、「丹頂蔵」では毎年11月末から3月まで高い煙突から真っ白な水蒸気が立ち上る。
日本清酒は2016年夏に新しい杜氏が就任し、今シーズンに仕込んだ一番の新酒が12月にお披露目された。「今までの新酒とは大きく違います。フルーティで新鮮でとにかくおいしい。私は大好きです」と櫛引さんは太鼓判を押す。長いときをかけて地中を流れてきた水が、川のほとりの歴史を刻む酒蔵でまた新しい酒になる。その奇跡のような、運命のような幸せに感謝しながら盃を傾けたいと思う。
●千歳鶴酒ミュージアム
日本清酒の醸造所「丹頂蔵」に隣接し、日本清酒の歴史を伝えるポスターや貴重な資料を数多く展示。販売する多くの商品と仕込み水の試飲もできる
北海道札幌市中央区南3条東5丁目1
TEL:011-221-7570
営業時間:10:00~18:00(年末年始は休館)
WEBサイト