誉れ高きまちの記憶——熊石の相沼奴

八雲町熊石(旧熊石町)の相沼八幡神社の大祭にて、おみこしや山車行列の先陣を切って進む相沼奴(熊石歴史記念館所蔵)

道南には「奴」と呼ばれる伝統芸能が多くみられる。たとえば、松前町の月島奴振り、北斗市の上磯奴、鹿部町の大岩奴ッ子振りなど。日本海に面した八雲町熊石は、相沼奴(あいぬまやっこ)。160年以上続く芸能は、ときを超えてこの土地に暮らす人たちをつないでいる。
石田美恵-text 伊藤留美子-photo

はじまりはニシン漁華やかな江戸末期

熊石の地名はアイヌ語のクマ・ウシ(魚干し竿のあるところ)に由来し、古くからこの地域で漁業が盛んだったことがわかる。町の無形民俗文化財にも指定されている相沼奴は、檜山沿岸がニシン漁で沸き立っていた1859(安政6)年ころ、相沼八幡神社の本殿再建立の祭典で初めて奉納された。当時、北陸方面から多く来ていたニシン漁従事者によって行われたと伝えられている。
その原型は、仙台藩の伊達政宗が江戸の赤坂にあった八幡神社の祭礼に奉納した「赤坂振り奉納奴」にあり、他の地域で多く見られる「登城奴」や「道中奴」などとは形態が異なるという。しかし、どのように熊石に入ってきたか詳細は不明で、各地に伝わる奴との比較調査も行われたが、同様のものは一切なかったそうだ。相沼奴保存会メンバーの一人、田中智貴(たなか・ともき)さんは「口伝によると当時の豪商で、北前船をもっていた山田六右衛門(やまだ・ろくえもん)に仕えていた人たちが伝えたそうですが正確にはわかりません。でも、それもまた謎めいて面白いですよね」と話してくれた。

相沼奴は3年から5年おきに開催される相沼八幡神社の大祭で、御神輿渡御の先供として奉納され、丸2日かけて地域をくまなく練り歩く。本格的な行列は40人以上の編成となっていて、傘取(かさとり)を先頭に、長柄(ながえ)、七つ道具といったパートから成り立つ。衣装は揃いの長半天にきらめく化粧回しをつけ、腰にひょうたんやアワビなど縁起の良い飾りを下げ、エーイー、キタリなどの掛け声とともに一糸乱れぬ優雅な振りを繰り広げる。ニシンの千石場所として知られた繁栄を伝えるかのごとく、沿道からの拍手と掛け声に熱狂の渦が広がって町中が興奮に沸き立つ。
同じく保存会の桂川裕樹(かつらがわ・ゆうき)さんいわく、「ぜんぶの行列がそろうと長さ約300mにもなって、とにかく壮観な景色です。一度本物を見たら絶対『おー!!』ってなりますよ」。

長柄は鞘の飾りによって大鳥毛、頭巾、白佐釜、黒佐釜、押槍の区別がある。
全員でピタリと息のあった所作が見どころ(写真提供:八雲町熊石支所)

相沼奴保存会のみなさん。写真左から、笠取師匠の桂川裕樹さん、七つ道具師匠の山田悦雄(やまだ・えつお)さん、長柄師匠で総取締役の油谷州明(あぶらや・くにあき)さん、長柄師匠の田中一雄(たなか・かずお)さん、長柄担当の田中智貴さん

日本海に面して建つ相沼八幡神社は1615(元和元)年に建立、1859(安政6)年に本殿を再建。かつては9月に祭典を行っていたが、出稼ぎや遠洋漁業に出る人が増えてから帰省者の多いお盆に行うようになった

若者たちの憧れとして

相沼奴の伝統を継承するため、まちの有志によって「相沼奴保存会」ができたのは1968(昭和43)年。現会長の油谷州明さんは、17歳から長柄を担当し、現在はすべてのまとめ役である総取締役(総取)を務めている。近年の保存会は人手不足が悩みの種だが、かつては若者たちが「入りたくても入れない」という時代があった。油谷さんは当時の様子をよく覚えている。
「奴行列に参加できるのは、すごく特別な『誉れ高きこと』なわけ。みんなが出られるものじゃないからね。着るものから何から格好よくて、初めてのときは本当にウキウキしました。新人は祭りの1カ月くらい前から仕事を終えて毎晩漁港に集まって、師匠から演技を指導される。私らは『鬼の赤松』と呼ばれた赤石松太郎さんからビシビシしごかれましたよ」

油谷さんが奴の面白いしきたりを教えてくれた。
途中で演技をまちがえたり、前後の人と間隔がずれたり、何か失敗したときは「こわる」といって演技を中断してその場に座り込む。「こわる」は壊れる、崩れるといった意味合いだろうか。誰かが「こわる」と周りが全員「こわる」ので、行列は一旦停止となる。すると、すかさず近くの家の人がお酒を差し出してくれ、それを飲んで気合を入れてまた最初からやり直すのだ。
「もっと酒を飲ませろー!ってわざとやる場合もあります。神社前でクライマックスを迎えるんだけど、みんな勢いに乗ってくると1回で終わらず、2回、3回とこわる。そのたんびにお酒が出て、わっと盛り上がってなかなか終わらないの(笑)。でも、どんなに酔っ払っても長柄は絶対離さないで、最後の『宿入りの儀』はシャキッと締めます」

延々と続く奴行列(熊石歴史記念館所蔵)

奴行列と見物の人々。行列が「こわる」と沿道の家や師匠からお酒が差し出される(熊石歴史記念館所蔵)

油谷会長に本番の衣装をつけてもらった。「これを着ると姿勢がピッとします。2日間歩くと足がパンパンになるけどね」

地域の子ども全員が奴の担い手

この地域にあった相沼小学校と熊石第二中学校では、地域の伝統文化を学ぶために以前から相沼奴を取り上げてきた。特に第二中学校は1999年、当時の1年生が文化祭の演目の一つとして奴に取り組み、演技を披露。それがきっかけとなって全校生徒が練習するようになり、さらに2002年からは総合的な学習の時間を使って、歴史や伝承の意義なども学ぶことになった。相沼奴保存会の師匠たちは、子どもたちに演技指導をすると同時に、奴に対する熱い思いを目いっぱい伝える場所ができた。

学校での取り組み当初は、「何でこんなことしなければいけないの」と不満そうな子もいたという。しかし、指導に熱が入るにつれて子どもたちの反応が変わってきた。練習を重ねるうちに演技が自分のものになり、観客に見てもらう喜びや緊張感もやりがいとなった。実発表の場は、地域のイベント「あわびの里フェスティバル」と文化祭の年2回。発表直前は保存会メンバーが連日学校に足を運び、当日は子どもたちの一挙一動にドキドキハラハラしながら見守り、全部終わるとほっとした気持ちになった。また、保存会の指導だけでなく、子ども同士でも先輩から後輩へ、各パートの演技を引き継ぐ仕組みができていった。

桂川さんは自分の子ども時代をこう振り返る。
「私は中学1年から笠取をやっていますが、最初は奴の歴史など全く気にしていませんでした。笠取は一番目立つ派手なパートで、ずっとやりたいと思っていたんです。教えてくれた師匠さん方はすごくプロ意識が強く、自分のパートに誇りをもっているのがガンガン伝わってきました。その姿を見ているうちに、高校生くらいになってからかな、自分も地域の一員としてこの伝統を伝えていく、っていう気持ちがだんだん芽生えてきました」

田中さんは中学卒業後に熊石を離れ、26歳でUターンして再び奴の世界に戻ってきた。
「私も中学生のころは何も意識せず、ただ上手になりたくて練習していました。父親が長柄だったので、自分も長柄担当です。親と同じパートをやる子が多いですね。大人になって、熊石に帰ってきたらすっかり人手が足りなくなっていて、保存会に参加することに。大祭の日に行列に出て、それを中学時代の長柄の大師匠が見てくれて、『立派だった』と言ってもらえたときに『ちゃんとつながっているんだな』と実感しました」

前回、最後に相沼八幡神社の大祭で奴行列が奉納されたのは2016年のこと。子どものころから奴を練習してきた地域の十代、二十代の若手が女子も含めて4名参加し、さらに前々回からは札幌大谷大学の学生たちも来てくれた。
しかしその翌年、熊石に4つあった小学校と、2つあった中学校がそれぞれ1校に統合される。新しい学校は相沼地区以外の子どもも通うため、総合的な学習で相沼奴を取り上げるわけにはいかなくなった(地域全体として「熊石音頭」の継承に取り組んでいる)。学校と地域が密接に連携した相沼奴伝承の仕組みは、現在、残念ながら休止状態となっている。その後はコロナ禍などが重なり、次に大祭で奴行列を行う見込みは立っていない。「私らも年だから今後どうなるかなぁ」と油谷会長がつぶやいた。

1968年に書かれた相沼奴保存会規約に、こんな一文を見つけた。

祭礼の実施されて来たのは其の時の部落の状況に依って、大祭と決れば御輿が出され、それにお供の奴が付くので三年か五年に一度、長い時は二、三十年も奴の出なかった時も有った。

状況によって奴が出なかったのは今だけではない。そのときが来れば、また壮観な景色を見せてくれると私は信じたい。そのときは長い行列の先、青く広がる日本海の向こうに、伝統をつないできた大勢の人の姿が見えるような気がする。

■「相沼奴」動画(YouTube)
※1981(昭和56)年に相沼奴保存会の皆さんが北海道庁前で相沼奴を披露したときの様子をご覧いただけます。

小学生用の奴の道具。大人用より小さく軽く作られている

熊石歴史記念館に展示されている相沼奴の和紙人形。細部まで作り込まれ、行列の様子がよくわかる

熊石の歴史と文化、産業の歩みなどを幅広く辿ることができる熊石歴史記念館


熊石歴史記念館
北海道二海郡八雲町熊石平町325-3
電話:01398-2-2200
開館時間:9:00~17:00
休館日:月曜、祝日の翌日(土曜・日曜の場合は開館)、11月〜3月
入館料:大人330円、子ども160円

<参考文献>
・『熊石町史』
・『檜山の史跡と伝説』葉梨孝幸編
・熊石第二中学校 相沼奴資料

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