地のチカラを地域史に結ぶ-3

記録から未来が生まれる

たとえば冬の石狩川河口を初めて訪れる旅人にとって、厳寒の日本海はどんな風景に見えるだろうか

1830年代にフランスで銀板写真(ダゲレオタイプ)が公開されたとき、それは「記憶を持った鏡」と呼ばれたという。表現者たちによって「記憶と記録」はさまざまに変奏されるテーマだけれど、シリーズ最終回では、地域の「記録」が持つ意味や可能性について、文化史の面から考えてみたい。
谷口雅春-text&photo

旅人はストレンジャー

ブルックリンの安アパートに暮らす男(ウィリー)が、祖国ハンガリーから突然やって来た従姉妹(エヴァ)をしぶしぶ迎え入れるところから始まるジム・ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(1984年)は、人と土地の繫がりをはなから解いてしまっている映画だ。
舞台はニューヨーク、クリーブランド、フロリダと移動していくが、それぞれの街をなぞるような風景もアイコンもなく、主要な登場人物3人の心が響き合うこともほとんどない。物語の枠組みや振幅をずらしたそんなオフビート感が80年代に人気を呼んだのだが、彼らはそれぞれにどこに行ってもストレンジャーなのだ。雪が降ったクリーブランドの冷え冷えとした街角で、つねにウィリーに付き従う男エディは言う。
「新しいところに来たのに、何もかも同じに見えるよ」
土地とのつながりが薄いストレンジャーが見る風景は、いわば凸凹や明暗のないどこまでもフラットなものだ。映画のタイトル「ストレンジャー・ザン・パラダイス」は「楽園よりも奇妙な」という意味だが、題名には当然、「ストレンジャー(他人・異人)」も組み込まれているだろう。

土地に現れたストレンジャーは、その場所では歴史を持たない人々だ。彼らは土地に根ざした時間の連なりの外側から奔放に言葉をつむぎ、行動を起こす。
詩人・歌人の北原白秋は1925(大正14)年の夏に鉄道省主催の樺太観光団に加わり、日本領だった樺太を旅している。そのときの体験を記した「フレップ・トリップ」は、驚くばかりの高揚感でふくらんだ不思議な紀行だが、それはまさに心が弾けたストレンジャーのふるまいに見える。
北原は国境のまちの小学生のために童謡を作り、トナカイの仔のように活発に動き回る、亜麻色の髪をしたロシア人の少女セーニャとの出会いを楽しげに綴る。それは、先住する少数民族の貧しく汚れた子どもたちの描写とはあまりに対照的な、明るく健やかで、童話的な光に満ちていた。
教員の経験もあるプロレタリア作家本庄陸男は、発表当時は発禁になったある論考で「フレップ・トリップ」を読んでこう書く(「資本主義下の小学校」1930年)。

樺太という遠い所に、私は生活に追われた青年期のつらさをもっている。その辛苦は、今もあるのだが、一度ゆっくり語らせてほしいと思うのは、内地の生活に追われたそれらの人間たちのかなしさなのだ。(中略)生まれた土地の空と土とを捨てる百姓の決意の動機を考えてやってから、ものを云ってもらいたかった。

1934(昭和9)年には、作家林芙美子が樺太の旅を綴っている(「樺太への旅」)。
林は、製紙会社にとっては無尽蔵の資源としてあった森林がつぎつぎに伐採されていることを嘆く。
「一時間あまりの(※鉄道客車の)車窓を見て驚いた事は、樺太には野山といふ野山に樹木がないと云ふことでした」
そして、オタスにポツンとある平屋の小学校の、なんとも孤独なたたずまいに気を揉んだ。オタスには、ウィルタやニブフ、ウリチなど、アイヌ民族以外の先住民を30戸以上強制的に集めた先住民集落があり、彼らの子弟を国民化するための教育所も開かれていた。芙美子は校長夫妻に話を聞くことにする。彼女にとってこの旅は、「妙に眼にみえない色々のわずらはしさから放たれたい為の旅」だった。

本庄の苛立ちはごくもっともなものだろうと思えるし、林の方が土地へのニュートラルな感度を少し多く持っていたのだろう。しかしすべてのツーリストがそうであるように、北原白秋も林芙美子も、樺太を旅したストレンジャーだった。

「1982 武満徹世界初演曲集」。岩城宏之(指揮)、札幌交響楽団。Disc2には武満徹の興味深い講演が収められている

札響と武満徹の蜜月を掘り起こす

2021年夏。『1982 武満徹世界初演曲集』というCDがドイツ・グラムフォンから世界同時発売されて、話題を呼んだ。札幌交響楽団が1982(昭和57)年に札幌市民会館で行った、武満徹(1930-1996)の世界初演曲ばかりで構成した演奏会を、当日行われた武満の講演といっしょに収めたものだ。録音はFM北海道(Air-G')。1982年は同局開局の年で、2021年は武満没後25年、そして札響創立60周年の節目でもあった。
局の資料庫で眠っていた音源に改めて光を当てたのは高山秀毅アナウンサーで、かねて札響関係者からその価値を十分に言い含められていたのだった。

独学からはじめて作曲を学び、やがて現代音楽の分野で「世界のタケミツ」となる武満徹だが、岩城宏之(1932-2006)が札幌交響楽団の正指揮者となる1975(昭和50)年以降は、同楽団と深い関わりを持つようになる。1976年には岩城の指揮によって、東京でも実現していなかったオール武満プログラムの定期演奏会が開かれ、日本の音楽シーンにエポックを記した。プロオーケストラの定期演奏会を邦人の現代曲だけ、しかも一人の作家にしぼって行うなど、前代未聞のことだったのだ。
黒澤明監督が戦国劇「乱」の音楽を武満に託したとき(1985年)、武満は岩城・札響による録音を熱望して、これを実現させている。直前まで札響の起用に納得していなかった黒澤を前に、前年に竣工したばかりの千歳市民文化センターで行われた緊張感に満ちた録音と、終了後に楽員たちに向けた、それまでの態度を翻すような黒澤の満足と感謝は、北海道の音楽史に残る挿話だ。

『武満徹、世界の・札幌の』(インスクリプト)

CD『1982 武満徹世界初演曲集』に熱くすばやく反応したのが、港千尋多摩美術大学教授(写真・映像)と、武満を研究する小沼純一早稲田大学教授(音楽文化)だった。そしてこの音源と武満の講演の価値をさらに広く伝えようと、札幌の関係者も動員しながら『武満徹、世界の・札幌の』(インスクリプト)という書物が編まれた。札幌から参画したのは、上田文雄前札幌市長、演奏会の音源を掘り起こしたAIR-G’の高山秀毅アナウンサー、さっぽろ芸術文化研究所の伊藤佐紀代表だ。
昨年(2022年)3月にはメンバーが揃ったトークイベントも札幌で開かれた。北海道新聞の記事(同年4月16日)には、その場で港教授が、「武満と札響の関係はあまり知られていなかった」などと発言したことが触れられている。
武満徹の存在を含めて岩城宏之が札響に深く関わった時代は、古くからの札響ファンにはちょっと誇らしいエピソード群に彩られている。しかし首都圏などの音楽ファンにとって武満と札響の交わりを知ることは、思いがけず眼を開かれることだった。この本の誕生は、港千尋と小沼純一という、いわばストレンジャーがもたらした出来事だったといえるだろう。
ちなみに札響の岩城時代のことなどは、現在では札響の公式ホームページから知ることができる。

北海道芸術文化アーカイヴセンター(ACA)古家昌伸代表(編集者・アートライター)

「北海道芸術文化アーカイヴセンター」構想が動き出す

strange(ストレンジ)の語源は、ラテン語のextraneus(extra・外側に、aneus・属する)だという。フランス語ではétranger(エトランジェ)。アルベール・カミュの『異邦人』の原題は「L'Étranger」(The Stranger)で、民俗学や文化人類学の文脈ではマレビトや異人も、共同体に外部への回路をもたらすストレンジャーだ。
ストレンジャーは、土地の人々が日々の営みに追われて必死に生きているとき、そこから離れてものごとを俯瞰できる。そしてストレンジャーが得る発見や、そこで抱く違和感などが、ひいてはストレンジャー自身をも内側から変えていく。

前回の稿ではセトラーという概念をあげてみた。外部からやってきてやがてその土地の主権を握った人々のことだ。現在の北海道やアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドなどは、セトラーが作って来た社会だ。とりわけ近年世界各地のセトラーには、自分たちよりも先住していた少数の人々と、多くの物事や考えを共有したり議論を深めていくことが求められている(例えば2019年国際公文書館会議・先住民族問題専門家グループが発表した「タンダンヤ・アデレート宣言」など)。
中村和恵明治大学教授(比較文学・詩人)は、1992年に国立西洋美術館で開かれた「オーストラリア絵画の200年展」について、19世紀後半からの動向をめぐってとても興味深い印象を綴っている(『キミハドコニイルノ』)。

18世紀19世紀前半の得体の知れない疑似英国的な風景画がしだいに変化して、これらの画家たちの筆がこの大陸の深部を映し出しはじめる、植民地の人間が本国とは違う自分たちの土地と光に、そうだ、これこそがわたしのものなのだ、とうなずき始める、それまでには時間が要るのだった。けっしてすぐにひとは土地の姿が「見え」たりしないのだ、ということが新鮮だった。

アーカイヴセンターの最初の会合。2023年3月14日、札幌文化芸術交流センター SCARTSにて(写真:Koji Sakai)

明治以降に本州以南から北海道に移り住んだたくさんの人々は、いつごろどのように北海道という土地の姿を見いだしていっただろう。
いま北海道の芸術文化の分野で、これまでこの島で繰り広げられてきた出来事を再構築しようという動きが起こっている。古家(こいえ)昌伸さんが中心になって取り組む、「北海道芸術文化アーカイヴセンター」(Arts and Culture Archives Center of Hokkaido・ACA)の構想だ。同センターでは約30人の有志メンバーが、過去から現在まで、北海道で行われてきた、そして行われている芸術や文化活動に関するたくさんの情報を収集して、Webサイトから入るデータベースの形で公開していく計画を練っている。

北海道新聞の文化部長や文化部編集委員を務めた古家さんは記者として、北海道の文化創造の最前線に長年立ち会ってきた。これまでの北海道の芸術文化活動の記録は、それぞれの分野の優れた研究者たちの努力によって重ねられている。今田(こんだ)敬一の『北海道美術史』(北海道立美術館編1970)、吉田豪介『北海道の美術史』(共同文化社1995)、前川公美夫『北海道音楽史』(新装版・亜璃西社2001)、『北海道文学大事典』(北海道文学館編1985)や『北の表現者たち-北海道文学大事典補遺』(同2014)などだ。演劇や映画、ポピュラー音楽などの分野でも、少数だがそれぞれ同様の労作が知られている。
古家さんは言う。
「これらの書籍は、私が取材・執筆する際のバイブルでした。貴重な仕事を誰かが受け継いでいくことが大事だと思います。しかし現在は活動が多様化し、またインターネットの登場で情報が必要以上に拡散したことで、ひとりの力で活動の全容を把握することは難しくなってきました。だからもっと間口を広く考え、分野も立場もちがう専門家たちの力を横断的に集めて記録を再編集していきたい」
古家さんらは北海道の芸術文化活動を未来に受け継いでいくために、つねに新たな情報が加えられ、相互に関連していく、大きく深い基盤を作りたいのだ。ひとりの個性的な専門家が自らの志向で通史をまとめる時代から、複数の多様な力を束ねることで複雑で変化の大きな時代動向を合理的に記録するスタイルへの移行、というわけだ。

「イメージとしては、ベテランの方々の口からいまもよく出る、札幌駅の『駅裏8号倉庫』の存在があります。1980年代。映画や演劇、写真、音楽ライブや詩の朗読にフリーマーケットなど、いま思えば驚くような幅広い活動が混在する場だったようです。ジャンルを超えたこのような活動にも目を向けていきたいし、同時に私たちの活動自体も、さまざまな人たちのゆるやかなネットワークのもとで続けていきたいのです」
「駅裏8号倉庫」を人々が行き交った時代は、ちょうどジム・ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」が静かにヒットしたころだから、当時の時代相が想像できるかもしれない。
古家さんが強調する重要なポイントは、「モノではなくデータを集め、誰でも見られる形で公開する」こと。つまり「いつ誰がどこでどんな活動(展覧会・コンサート・パフォーマンス・出版など)を行い、それがメディアや批評でどのように受け止められたか」、といったことの情報を重ねて、社会で共有される財産(コモンプロパティ)としていく。作家や関係者たちのオーラルヒストリーなども有力なコンテンツになるだろう。公開情報の知的財産権では最新の考え方(クリエイティヴコモンズ)に関する研究も始めていて、多くの著作権者に理解を得ていく考えだ。

「始まりはファインアートや現代アート、そしてクラシック音楽、文芸、演劇など、いわゆる『芸術』のオーソドックスなジャンルですが、もちろんサブカルチャーやアイヌ文化の領域などへも自ずと間口は広がっていきます。だから『芸術』ではなく『芸術・文化』と名乗ります。いろいろな分野を横断することでこそ、アーカイヴの価値がいっそう高まるでしょう」

前回取り上げた吉崎元章さん(本郷新記念札幌彫刻美術館館長)の研究や、先にあげた札響の武満徹作品のCDとその解説本が誕生したのも、それぞれが過去のデータの蓄積をていねいに掘り起こすことから始まっていた。そしてこのアーカイヴがあれば、もっとたくさんの人にそうした取り組みが可能になり、ひいてはそれが北海道の芸術文化をさらに活気づけることになるだろう。
昨年(2022年)博物館法が改正となり、その中では博物館資料のデジタル・アーカイヴ化もうたわれるようになった。予算や人員の面で問題は少なくないだろうが、DX(デジタルトランスフォーメーション)の潮流は当然、この分野にも及んでいる。
「北海道芸術文化アーカイヴセンター」のデータベースのシステム設計には、研究者を含む専門家チームが開発をスタートさせている。同志として参画しているので、現在のところはみな手弁当だ。
運営のスタイルはNPO法人とするか一般社団法人とするかなどに始まり、古家さんたちは話し合いを重ねながら、来年(2024年)春までにはデータベースのプロトタイプを公開したいと前進している。運営も中身も、オープンでフラットなつくりがモットーだ。
立ち上げの財源や運営費だが、これも来春以降クラウドファンディングを立ち上げ、ほかに公的な助成金も申請する予定。データベースの維持管理と拡張のために、年会費を納める維持会員の制度も検討中だ。

アーカイヴセンター設立準備会。2023年9月21日、北海道立市民活動促進センター(写真: 北海道芸術文化アーカイヴセンター)

ストレンジャーを招く、新しい北海道マップ

歴史学者大濱徹也(1937-2019)は公文書館の役割をめぐるシンポジウム(福岡共同公文書館開館5周年記念シンポジウム・2017年)で、記録を残し検証するヨーロッパ文化の成り立ちにふれながら、その起源は旧約聖書のエズラ記にさかのぼる、と言う(同シンポジウム講演録)。
エズラ記は、イスラエルがネブカドネザルに滅ぼされ、 ユダヤの民がエルサレムの神殿の宝物ともどもバビロンに連れていかれた「バビロン捕囚」からの解放を説いた物語だ。そこでは神はユダヤの民をあわれみ、ペルシャのキュロス王にバビロンを滅ぼさせる。ユダヤの民は、虜囚から解き放たれ、奪われた神殿の宝物を持ちかえってエルサレムで国づくりを始めた。しかしその地の住民は神殿の建設を妨害する。そのときユダヤの民は、神殿の再建はキュロス王に認められたことなので、その事実を確認してほしいとダリウス王に訴えた。記録保管所を調べると、はたしてキュロス王の命令が確認できたので、エルサレム神殿は完成させることができた。
大濱は、こうした記録による統治の文化はのちに西欧社会に根づき、民主主義を支えるようになった、という。つまり記録を残し検証、活用することこそが、社会の成り立ちの根幹なのだ。大濱はこの講演で現代の公文書館の役割をそこから説くのだが、古家さんたちがめざす「北海道芸術文化アーカイヴセンター」もまた、こうした深い基盤を共有するものだ。近年札幌を含めて全国の公文書館でも、資料をインターネットで公開するデジタルアーカイヴサービスが進展している。

ストレンジャーの対義語は「友人・知人、なじみ」だが、よく知っている人から全く知らなかった一面を不意に見せられることもあるだろう。自分自身の中にさえ、知らなかった人がいるかもしれない。ストレンジャーはどこにでもいるのだ。
ストレンジャーは、樺太を旅する北原白秋のように無邪気にはしゃぐこともできるし、同じく林芙美子のように、その土地で自らの内面と対話を深めることもできる。
一方で土地の人々は、ストレンジャーと出会うことで外の世界を知り、ストレンジャーとともに何かを作り出す。さらには土地の内部にもストレンジャーはいるし、ストレンジャーからの刺激を受けた土地の人々だけで新しい渦を起こすこともできるだろう。渦には外から、思いもかけないような新たなエネルギーが流れ込んでいくはずだ。
「北海道芸術文化アーカイヴセンター」はきっと、北海道の内外からストレンジャーを引き寄せるための巨大でスリリングな地図になるのだと思う。北海道マガジン「カイ」としても、来春からの具体的な動きに注目していきたい。

北海道芸術文化アーカイヴセンターの動向については、以下から知ることができる。
https://ac-archives-h.site

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