岩見沢志文の草分け辻村直四郎-4

人間と土地の交わりから、辻村もと子を読む

函館遺愛女学校時代の集合写真。外国人教師の向かって右隣にいるのが辻村もと子と思われる(写真の詳細は調査中)

岩見沢志文の開拓のリーダーだった辻村直四郎が残した日記と写真から、辻村家と地域の歩みをスケッチしてきた。最終回は、直四郎が深く愛した娘、辻村もと子の作品世界について考えてみたい。いまもと子を読むことの意味が、あらためて問われていると思うからだ。
谷口雅春-text/古写真提供:辻村淑恵

入口は、「早春箋」

辻村直四郎の長女の辻村もと子(1906-1946)は、小田原出身の父が北海道の大地と最初に格闘した日々を描いた長編小説、『馬追原野』で知られる。直四郎が岩見沢志文に入る前、現在の長沼町に開拓の一歩を記した物語だ(作中では父は秋月運平の名で登場する)。いま一般に『馬追原野』を読むには、図書館などに行く必要があるだろう。しかしすぐ手軽に読めてもと子の文学世界への入口となる作品に、青空文庫(無料電子書籍サービス)で読める「早春箋」という短編がある。

1944(昭和19)年6月に「戦時女性」誌(「婦人画報」改題。戦後は再び「婦人画報」に)に発表されたこの作品は、もと子の母を思わせる新妻が志文の開拓地に入った時代を切り取ったもの。彼女が小田原の実家の母に当てた手紙文で全編が綴られていく。
農業とはまったく無縁だったこの母は、新郎といっしょに志文をめざし、東北本線を北上する。青森から函館への連絡船に乗り換えるとき、「小田原の漁船ほどの」はしけに乗らなければならなかった。「ほんとうに怖しく、どうなることかと気もそゞろ、しみじみ来なければよかつたとさへおもひました。」

海をみてはいけない、じつと僕の手をみておいで、と夫はもうしました。私は、いはれたやうにいつしようけんめいあのひとの節の太い手をみつめてをりました。さういたしますと、なんだか、このがんじような手が、私の一生をぎゆつとつかまへてしまつてゐるのだと妙な気持がいたし、たのもしいよりも怖くなつてきてこまりました。お母さまのお手からこのひとに移され、このひとがこれから先の生涯をともにいたすひとなのだとそのときはじめて身にしみて考へられたのでございました。

「早春箋」には、しなやかな感性が綴ったみずみずしい抒情が満ちているのだが、冒頭近くのこの一節だけでその魅力に射貫かれる。親元から離れ、北海道の地で自立しなければならないと覚悟して旅立った主人公だが、夫となった人がいきなり自分の一生を捕まえてしまったことも事実だ。その現実に対して、戸惑いと怖れがいまさらのように頭をもたげる。それは、心の芯では、誰のものでもなくまずひとりの人間としてありたいと願う女性が抱いていた気持ちを逆なでる、一瞬の出来事だったのだろう。
いまから80年も前。1940年代に、明治の女性の内面の微細な襞(ひだ)をこのように写し取る目を持っていたのが、辻村もと子だ。

一方でこの作品のこの節を讃える言説としては、もと子と深い交友があった岩見沢の詩人加藤愛夫が、「自分の人生をぎゅっとつかまれてしまっているようだ、と感ずるあたり、夫の強い愛に委せきった新妻の気持が何の飾りもなく現れている」、と書く(『辻村もと子—人と文学』1979)。
また同じく岩見沢の歌人渡辺直吉は、「連絡船を直接横づけ出来なかった当時の、本船への乗船の様子を、匂うほどに初々しい若妻を、つつましい女心を描いている」、という(「文学岩見沢・辻村もと子33回忌追悼特集Ⅰ」1978)。
加藤や渡辺の捉え方にはとても違和感を覚えるのだが、それは受け止め方の正否の問題ではなく、時代の文脈の違いだろう。

直四郎が写した子どもたち。1909年、もと子3歳のころ。もと子には双子の弟、太郎と次郎がいたが、次郎はこの年の秋に早逝している

もと子が抱いていた西洋人形は、いまも辻村家に残されている

直四郎が写した、明治天皇崩御に伴う黒リボンの喪章を胸につけた子どもたち。右端の太郎の腕にも喪章が見える。1912(大正元)年8月。札幌で入院中の妻梅路に送ってなぐさめるためか

樋口一葉賞の意味

辻村もと子と『馬追原野』にふれるテキストには、必ずのように第1回樋口一葉賞を受賞、という枕詞がつく。第2回が続く前に日本の敗戦によって終了したこの賞は、1944(昭和19)年に制定された新進の女流作家のための賞だった。主催は、「早春箋」が載った「戦時女性」誌と、日本文学報国会。選定委員は、河上徹太郎、吉屋信子、円地文子、宇野千代、川上喜久子、窪川稲子、壺井栄、林芙美子、真杉静枝。
日本にとって15年戦争のぬかるみは、北海道開拓を動かした近代の、悲劇的な帰結だっただろう。そもそも直四郎はもと子(戸籍上はモト)という名前に、日本の近代の物語の起点ともいえる、紀元節(2月11日・神武天皇即位の日)に生まれたことを記したのだった。

受賞が決まったのは1944年の3月だが、アジア太平洋戦争の局面は厳しさを増し、夏にはサイパン島が陥落。米軍はサイパンを拠点にいよいよB29による日本本土への長距離爆撃を始めることになる。
だから『馬追原野』は、難局に立ち向かいながら満州開拓にも取り組む日本が、いわば「いまいちど北海道開拓の時代に立ち返って一丸となることを鼓舞する作品」として見いだした小説なのだった。賞への推薦理由として「戦時女性」(1944.6)には、「今の時局にも適宜なる感銘を贈り得る作品」、とある。

『馬追原野』(風土社1942)

さらに『物語・北海道文学盛衰史』(北海道新聞社学芸部編1967)は、この時代をこう位置づけている。
「満蒙開拓—北辺守護—の掛け声は日本の国策になった。しかしそれはどこかで北海道開拓に重なり合うイメージがある。幸か不幸か、昭和十年代の北海道の文学は、この時代の波にのまれていった」。
こんな一節もある。
「昭和十年代、北方と開拓とに関心がたかまった時期に、北海道が三人の芥川賞作家を送り出したことは、ゆえなしとしない。昭和十四年の寒川光太郎、昭和十八年の石塚喜久三、昭和十九年の八木義徳。(中略)それはどこかで、(戦後復興期の)北海道開発ブームのなかで『挽歌』(原田康子)や『氷点』(三浦綾子)が出てくる事情に似ているともいえる」。
また『近代北海道の文学』(小笠原克1973)では、『馬追原野』は明確に「国策との相関」という章に置かれている。

『馬追原野』は、父の直四郎が実体験を綴った「自叙伝」の内容をふんだんに活かしていることもあり、明治20年代の空知に入植した人々の実態や心情がとてもリアルに描かれている傑作だ。しかし一方で、『早春箋』を読むまでは、僕自身としてもこれはもっぱら国策小説として文学史に位置づけられているのだろう、というだけの印象を持っていた。
それを覆されたのは、先にあげた「早春箋」と、未発表だった長編『山脈(やまなみ)』の存在だった。

「文学岩見沢」の別冊として発刊された、長く未発表だった長編『山脈』(文学岩見沢の会2018)

未発表だった『山脈』を読む

村田文江さん(北海道教育大学岩見沢校元教授・歴史学)や黒井茂さん(書誌研究家・北方史料研究会)らが活動する辻村家資料研究会が、2016(平成28)年6月から辻村家の本格的な資料調査に取り組んでいることは繰り返しふれてきた。2022年9月には思いがけずに大量のガラス乾板(直四郎が撮影した写真群)が見つかったわけだが、写真に先だって大きな成果となったのが、『山脈』という、原稿用紙400枚を超える未発表の長編小説の原稿のテキスト化(入力)だった。『山脈』はいま、「別冊文学岩見沢」(文学岩見沢の会2018年2月)で読むことができる。

『馬追原野』の舞台が現在の長沼町だったのに対して、『山脈』の舞台は幌向(ほろむい)原野、幌向川のほとりに広がる現在の志文だ。
時代は日中戦争勃発前夜で、主人公は、東京の専門学校を卒業したのち郷里の農村に帰って女学校の教師を務める、相川郁代。明治時代に開墾に成功した地主の父(相川啓三。実父直四郎がモデルとも考えられる)は妻を亡くしていたが、後妻として嫁いできたのは、複雑な過去を持つお銀だった。
郁代はつねに、人として、そして女としての正しい生き方を誠実に考え続ける女性だ。帰郷した農場は、実母が元気なころには見られない小作人同士の争いがあり、その原因は強欲なお銀のふるまいにあるのだった。父の身体は病におかされ、この後妻は実の弟と郁代を結婚させて、農場の乗っ取りを図っている。しかし郁代は、道庁で北海道史の編纂に雇われた青年、川並に惹かれていた。彼には学生時代に政治運動でパージされた過去があり、ひとりの日本人として新しい出発の道を模索している。
前半のあらすじをなぞるだけで、まず物語としての駆動力に満ちた作品であることがわかるだろう。

ユウガオの実からかんぴょうを作るある日の辻村農場。左から次男太郎と順子夫人。『山脈』の舞台にはこうした日常があったことだろう(1935年前後か)

父啓三は娘を、顔立ちは亡くなった母似だが性格は自分の血を受け継いでいる、と見ている。そして、自分たちと違ってこの新天地を郷土とした郁代に対して、移植した母樹(生母)は結局この厳しい風土に適さずに枯れてしまったけれど、根から生えたひこばえは、風雪にもめげずに大きくなり、立派に成長したものだ、と目を細める。

自分たちの目の前の未来について、郁代が川並と語りあう場面がある。川並が、自分は結婚よりもまずどうやって生活を成り立たせるかを考えていると言うと彼女は、「女も先ず一ばん先に、それを考えるのがほんとじゃあないかって気がするの。だけど、私の前には、すっかりお膳立てが出来ているのよ」
生活の苦労とは無縁の地主の娘として育った郁代だが、内面には、自らの境遇に対する葛藤があった。すべての根底にあるのは、ほかの誰のものでもない自分の人生を、自分の意志と知恵と力で拓いていきたい、という強い思いだ。
樋口一葉賞受賞作家という枠組みだけでは辻村もと子を、男性を慎ましく健気に支える女性を描くことで、国策にも沿った作品を書いた作家、という単純な位置づけにしてしまうだろう。もと子の作品群は、そんなフレームを軽々と越えていく強度に満ちている。

畑と防風林のあいだを万字炭山へと続く万字道路に太郎(13歳)がいる。半鐘の先に小作人たちの家が見え、その奥は現在は北海道グリーンランドがある一帯(直四郎撮影。1922年8月28日)

地域の暮らしと自治に重要な役割を果たしていた、辻村農場火防組。手前の消火ポンプと、役職名が入った揃いの法被(はっぴ)が目を引く(直四郎撮影。1926年4月16日)

もと子に当たる新しい光

村田文江さんに「辻村もと子の農民文学—自分を生きる女たち」(菊原昌子)という近年の論文を教えていただいて(『昭和前期女性文学論』新・フェミニズム批評の会2016所収)、いまもと子に当たっている新しい光の一端を知ることができた。
菊原(日本文学)は、まずもと子がわずか20歳で書いた短編『正平とお信』を取り上げ、内地から北海道の小作人のもとに嫁いだ女性が、夫の理不尽な怒声と暴力を浴びる日々の中でも最後には「自分を生きる」ことに目覚める展開を、もと子の農民文学の起点と評価する。そして後年にいたる作品群を俯瞰しながら、愛国の名のもとで生身の個人の声を封殺していった戦時体制下において、もと子は「いつの時代にも普遍的な、個人が生存し生活することの本質を問い続け、戦争協力とは遠いところで書き続けた」ことを明らかにしている。
『山脈』は、もと子のそうした価値観や世界観が最も高いレベルに到達した作品だ。

21世紀になって、戦前と戦後で日本を動かす仕組みは実は変わらないという論考が盛んになった(例えば「1940年体制論」)。しかし『文学と戦争—言説空間から考える昭和10年代の文学場』(松本和也2021)は、昭和10年代という単独の視座をいまこそ重視すべきだという前提に立つ。
この時代の知識人や表現者たちには、積極的に戦争を指導した人々がいて、その流れに便乗した人々も少なくなかった。そして逃避した人々もいる。さらには、ゼロに近いが、積極的に抵抗の運動を行った人の存在もあるだろう。これが一般的な戦前戦中期の社会の腑分けだった。
しかし文学が政治の奴隷になってしまった時代を再考しなおすために、この本では上記のような単純な枠組みを捨てて、複雑な文学活動の相互連環が作り出す関係性を「文学場」という概念をキーにして読み解こうとしている。そしてそれは、辻村もと子を読み直す場でもあるはずだ。
文学論を展開するのが本稿の目的ではないが、いま『山脈』を読むことができる僕たちは、第1回樋口一葉賞という枕詞抜きに、もと子の作品にあらためて向き合える場所にいる。そのことを強調したい。

大学在学中に書きためた小説をまとめて卒業記念に出版された『春の落葉』(1928年)。詩人・美術批評の外山卯三郎によって贅をこらした装丁が実現した。限定300部。両親への為書きがある

『春の落葉』は、それぞれに背表紙まわりの布が異なっている(写真提供:村田文江)

満州、東京、そして志文へ

前回随筆集『楡こだち』を取り上げた辻村朔郎は、姉もと子の4歳下になる直四郎の四男だ。
もと子が第1回樋口一葉賞を受けた1944(昭和19)年。30代半ばの朔郎は大陸深く、満洲中央銀行の行員として首都新京(現・長春)にいた。
朔郎はこの年、満州国の総合誌「満洲公論」10月号に、「独乙(ドイツ)の戦力と国民秩序」という重厚な論文を寄せている。そこで彼は同盟国ドイツに同行の社員として駐在していたときの体験を踏まえて、ドイツが国力の大部分をいかに無駄なく合理的に戦力として束ねているか、ということを冷静に評価しようとしている。

満州国で出版されていた総合文芸誌「満洲公論」復刻版(ゆまに書房)。1944年10月号に辻村朔郎が寄稿している

この6月には、ドイツ占領下にあったパリの解放をめざしたノルマンディー上陸作戦が功を奏して、連合国はドイツ帝国崩壊への布石を着々と打っていた。しかし朔郎は、ドイツ国民が持つ冷静な知性を指摘して、加えて秩序と規律に対する本能的な執着や一人ひとりの旺盛な生活意欲、さらには生産性の不断の向上がドイツの戦力を高いレベルで集結させている、と分析している。

今や獨逸はその戦局は重大な難局に立つてゐるけれどもその戦力名完全なる集結動員と之れに相應する國民の新なる秩序とが政府の意圖に完全に合致し、戦力の100%に近い効果を具現してゐる點は以て他山の石とするに足るであらう。

この号が出たころ、大日本帝国海軍は米国艦隊に対して壊滅的な敗北を期し(レイテ沖海戦)、いよいよ東京に大規模な空襲が始まる。そうした不安と緊張と危機感の中で、大陸で国策経済の最前線にいた朔郎は、どんな思いで苦悩する同盟国の国民の精神像を分析してみせたのだろう。

岩見沢の秋山写真館で撮った家族写真。1928年初頭、もと子が日本女子大学卒業目前のころか

1945(昭和20)年3月10日。東京大空襲があり、もと子が浦和から通って勤めていた日本橋の日本青年文学会事務所も焼け落ちた。彼女は戦争の日々と自らの腎臓系の病に疲労困憊だった。米軍が沖縄本島に上陸した4月には、迎えに来た母梅路に付き添われて、もと子は志文の地に帰る。次男太郎と五男啓三は召集されて戦地にいて、朔郎は満州だった。
病と旅の疲れで、もと子は入院を強いられた。そんな中で旧知の加藤愛夫が橋渡しをして、戦前戦中に発表されたものに書きおろしも加えて、札幌の白都書房から小説集を出すことが決まる。本ができるのが先か命尽きるのが先かという状態の中で、加藤は出版社を動かして特別に一冊だけを製本して、病床に届けた。それが最後の作品集『風の街』だ。もと子の喜びは例えようもなかったという。そしてその翌日の夜明け前、もと子は40年の生涯を終えたのだった。

直四郎が草分けとして拓いた土地に生まれ育った開拓二世たちは、それぞれの場所と境遇で懸命に生きた。格闘する開拓者たちの背中を見て育った彼らにとって、言うまでもないことだ。僕たちがいまできるのは、こうした歴史の細部から地域に関わる人や物事の複雑な関わりを学び足しながら、相互の連関が作り出す関係性の上で、辻村もと子という希有な作家の作品群と枕詞抜きに向き合うことだ。
直四郎の日記や写真が、そのための最良の水先人になることを、辻村家資料研究会の取り組みが教えてくれている。同会のこれからの調査研究に注目していきたい。

岩見沢の高柳写真館で撮ったもと子の肖像。 いくつかの縁談があるころで、見合い写真だと思われる

辻村家に残されているもと子のアルバム。Y.KAGAYAの台紙は、函館の高砂町(現・若松町)にあった加賀谷勇次の加賀谷写真館のもので、それらは函館遺愛女学校時代のもと子だ

(了)
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