歩いてみたら、出会えた、見つけた。

むかしむかし

函館から、幌内から、室蘭ルートをめざせ

1869(明治2)年8月15日、太政官布告により
蝦夷地は北海道と改められ、開拓使が置かれた。
中心地が函館から札幌に移され、欧米の先進技術を駆使した開拓が進められていく。
開拓使顧問ホーレス・ケプロンは、なぜ室蘭港を要にしようとしたのか。
矢島あづさ-text 黒瀬ミチオ-photo
town_vol34_muroran01head

祝津公園展望台から内浦湾(噴火湾)を望む

わずか1年3カ月で完成させた「札幌本道」

「函館から室蘭を経て札幌に向かう道路がなければ、札幌を道都にする価値はない」と力説した男がいる。1871(明治4)年に来日した開拓使顧問ホーレス・ケプロンである。報告書には道路の必要性を「建国ノ新古ヲ論セス、実際上国ヲ開クハ道路ノ外ナシ」とし「首都ト室蘭トノ間ニ一路ヲ開クハ最大要件タルコト明瞭」と記録されている。政府はこの報告を受けて日本初の砂利敷による本格的な馬車道「札幌本道」の開削を決定した。

「札幌本道」は、函館から森まで北上し、船で噴火湾を渡り、室蘭から千歳を経て札幌まで結ぶ約180kmのルート。現在の国道5号の一部(函館~森)と国道36号(室蘭~札幌)にあたる。それにしても、なぜ森~室蘭間を航路にしたのか。森駅のホームから、あるいは室蘭の絵鞆岬から眺めてみると、なんとなく理解できる。想像以上に対岸が近く見えるのだ。

絵鞆岬から対岸に駒ケ岳が見える。渡島半島はこれほど近いのだ

米国人測量技師ワーフィールドの指導のもと、1872(明治5)年3月、函館を起点に着工。最初は180人前後だった労働者も、函館~森間の工事が終わる7月頃には5千人を超えた。岩盤質の山を崩して切り開く工事は困難を極めたが、わずか1年3カ月で完成させるほどのスピード工事だった。そのため数多くの犠牲者を出している。

1872(明治5)年、札幌本道の開削工事(写真提供:室蘭市民俗資料館)

現在の室蘭中央通が、かつての札幌本道。「札幌通」と呼ばれ、波止場から続く市街地だった

クラーク博士も、イザベラ・バードも通った道

1877(明治10)年、札幌農学校の初代教頭クラーク博士が帰国する際、この「札幌本道」を利用した。のちに開拓使に宛てた書簡の中で札幌本道の無駄を指摘、札幌~小樽間の道路や鉄道の整備を提言したといわれている。しかし、その無駄から得た宝もある。クラーク博士は室蘭港から出港する前、農耕地として将来性のある紋鼈(もんべつ)村(現・伊達市)に立ち寄り、ビート栽培を奨励して米国から種を送る約束もしている。3年後、紋鼈村に日本初の官営製糖工場が設立され、やがて十勝や網走方面へとビートの生産が広まり、北海道は全国唯一の産地となった。

英国の旅行作家イザベラ・バードがアイヌコタンの平取を目指し、来日したのは1878(明治11)年。函館から馬で北上したイザベラは、森から「稲川丸」で噴火湾を渡った。のちに出版した『日本奥地紀行』に「申し分のない晴天に恵まれた。実に美しい真っ青な海にはさざ波が白く立ち、湾の南端を占める火山(駒ケ岳)から立ち上がる赤い火山灰が、陽光の下で光っていた」と書き残している。室蘭港に到着したのは8月19日の夜8時。40kmの航路に6時間もかかることにうんざりしたようだが、宿屋の客引きらが提灯を揺らして桟橋に向かってくるさまを見て「波一つない海にきら星が映るようで美しく、うっとりした」と喜び、「室蘭はとても麗しい湾の急崚な岸辺という絵のように美しいところ」と綴っている。

1872(明治5)年7月、トキカラモイ桟橋を築いて開いた室蘭港。森との間に定期船「稲川丸」を就航させた。奥に続くのは札幌本道(写真提供:北海道大学附属図書館)

室蘭中央通を海岸町3丁目から道道699号に下る。
ここがトキカラモイ桟橋のあった場所、かつての波止場だ

道内初の鉄道は室蘭に向かうはずだった

幌内炭山からの石炭輸送をめざし、道内初の鉄道が手宮~幌内間を走り始めたのは、1882(明治15)年11月13日。実はルートをめぐる計画段階で、開拓使顧問ケプロンは、幌内~室蘭に鉄道を敷く案を主張していた。幌内から石狩川岸まで鉄道を敷き、そこから水運を利用して小樽港に出る対案もあったが、ケプロンは水陸運送の効率の悪さ、冬に結氷する小樽港の不便さ説き、室蘭ルートを推していた。「札幌本道」が無事開通し、函館と札幌を結ぶ中継地として、室蘭が脚光を浴びていたこともあるだろう。

しかし、鉄道施設には莫大な資金が必要である。外資導入を柱にした建設案に政府が二の足を踏むうちに、雇用期間を終えたケプロンは、1875(明治8)年5月に帰国の途につく。安く済む石狩川水運案を進めるため、オランダから水利技師を呼び寄せたが、1878(明治11)年12月、米国より土木技師クロフォードが来日したことで雲行きが一変。「石狩川水運では石炭以外の収入はないが、小樽~幌内間全線を鉄道にすれば、乗客や貨物の収入も見込める」と試算し、財政難の開拓使を喜ばせた。

室蘭を「鉄のまち」に育てた井上角五郎

室蘭の製鉄業の祖・井上角五郎

ケプロンが夢見た室蘭ルートを実現したのは、当時、北海道炭礦鉄道の専務だった井上角五郎である。1892(明治25)年8月1日、北炭は岩見沢~室蘭間に室蘭線を開業。現在の輪西駅の北西(現・新日鐵住金構内)に室蘭停車場を開設し、さらに西側に貨物専用駅をつくり、石炭の積み出しを開始した。1894 (明治27) 年、室蘭港が特別輸出港に指定されると石炭・米・麦粉・硫黄は海外直輸出が可能になり、国内向け石炭を小樽から供給し、外国向け石炭を室蘭から輸出した。飛躍的に発展した室蘭港は、小樽港とその地位を逆転させた。

左の白い建物が1901(明治34)年に設置された税関支署、真ん中の建物が貨物専用駅。かつてこの波止場から石炭が積み出されていた(写真提供:室蘭市民俗資料館)

1906(明治39)年、鉄道が国有化されると北炭は、社名を北海道炭礦汽船に改称し、本社を岩見沢から室蘭に移転。翌年、北炭は鉄道を売却した資金でイギリスの会社と共同で日本製鋼所を設立。1909(明治42)年7月23日、井上はかねてからの夢であった、幌内の石炭と噴火湾の砂鉄から鉄をつくる輪西製鐵場(現・新日鐵住金)の溶鉱炉に火を入れた。室蘭が「鉄のまち」として歩み始める瞬間である。

波止場近くの札幌通に建てられた北海道炭礦汽船本社(写真提供:室蘭市民俗資料館)

右手の赤と白の煙突がある工場群は、かつて井上角五郎が夢見た輪西製鐵場(現・新日鐵住金)

もっと深く知りたいあなたに読んでほしい
『北海道の鉄道』田中和夫著 北海道新聞社
『新訳 日本奥地紀行』イザベラ・バード著 金坂清則訳 平凡社
私家本『室蘭に製鉄・製鋼所をつくった井上角五郎翁』伏木晃編著
この記事をシェアする
感想をメールする
ENGLISH