砲弾が激烈に飛び交った箱館湾。

回天搭載の砲弾

写真提供/市立函館博物館

写真提供/市立函館博物館

旧幕府軍の軍艦「回天」(700t)が放った砲弾。

大砲の内側は、螺旋(らせん)を描いて条溝が刻まれている。砲弾の表面につけられたリベット(鋲)がこれをなぞることで命中精度が高まるのだ。函館港から引き揚げられたこの砲弾は、リベットが削られているので発射されたことはまちがいないが、不発だった。

 「回天」(荒井郁之助艦長)は、箱館戦争で主力となり、箱館港内の海戦で壮絶な最期をとげた木造外輪式のコルベット艦。

1868(慶応4)年1月の鳥羽伏見の戦いではじまった戊辰戦争は、4月には江戸城無血開城があり、奥羽越列藩同盟を組む東北諸藩との戦いを経て、晩秋の若松城(会津)落城で終末に差しかかる。
これに異を唱えたのが、永井玄蕃や榎本武揚らに率いられた旧幕府軍。彼らは開陽や回天など当時最強の軍艦からなる艦隊の新政府への引き渡しを拒み、蝦夷地に向かった。生活の糧を失った旧幕臣たちのために蝦夷地を開拓しようという壮大な野心もあった。五稜郭を奪って蝦夷地に仮政権を樹立したが、すぐに新政府とのあいだで戊辰戦争最後の戦い、箱館戦争が戦われた。

箱館湾では1869年の春に複数の海戦が繰り広げられた。江戸の品川沖を脱走したさいには輸送船を含めて8隻で構成された旧幕府軍艦隊だったが、この時点で残っていたのは回天を中心に、蟠龍、千代田形の3隻。対して新政府軍には甲鉄を旗艦として、朝陽、春日、陽春、延年、丁卯の6隻があった。
回天は被弾が重なり、ついには弁天岬台場付近の浅瀬に乗りつけ、浮き砲台と化しながらも死に身の応戦をした。しかしやがて陸上からの砲火も浴びせられ、荒井郁之助艦長らは弁天岬台場に退却を余儀なくされる。回天と蟠龍には新政府軍によって火が放たれ、7日間も燃え続けたという。

函館市中央図書館には、無残に焼けた回天の残骸の写真が残されている。撮影者は、田本研造という説もあるが確証がない。いずれにしても、日本最初期の戦争写真が函館で撮られたことは間違いがないだろう。

谷口雅春-text

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