何かが起こりそうな予感と期待と。
日本の経済が世界にインパクトを及ぼしていた1980年代。文化人類学の梅棹忠夫は、「コンニャク情報」という情報のあり方を提示していた。コンニャクはほとんど栄養にならないけれども身体に良いことになぞらえて、直接には意味や利益もないような情報でも、人を刺激して感覚や創造力を活性化するものがたくさんある、という論考だった。社会には、事業の企画書にあるようなシンプルな論理だけではなく、接するだけで何かが起こりそうな予感や心地良さを含めた複雑な情報が必要なのだ。わかりやすい意味しかない「メッセージ型情報社会」から、ただふれるだけでもパワーを得られる「マッサージ型情報社会」へ、という幅のある情報論があったのはもう30年以上前だけれど、そんな流れはその後どうなっただろう。
大河石狩川の流れに接した空知は、日本の穀倉地帯のひとつ。炭鉱が栄えた時代を加えれば、食とエネルギーという、社会のもっとも重要な基盤を担った歴史の断面が見えてくる。中でも空知南部は、石狩川を上って早くから開拓民が入り、幌内や夕張の炭鉱開発に連なって生活インフラも整えられていった。
明治の移住者たちが向き合ったのは本州以南とはまったくちがう、荒々しい北方の大自然だ。厳しい冬に耐えてようやく春が明けても、広大な流域からの雪解けが注ぎ込んだ大河の激しい流れは、せっかく拓いた畑を飲み込んでしまうことも珍しくなかった。北東から流れ下った石狩川は、その先の江別で西北へと大きく進路を変え、夕張川や千歳川といった大きな支流が合流するので、治水工事が始まったばかりの時代には、その奔放なふるまいは留まることを知らなかった。秋の長雨のシーズンにも、河は暴れまわる。空知の大地には、いまもそうした先人たちの苦闘のあゆみが息づいているのだ。
時間のスケールをさらに百万年単位で拡張していくと、一帯は日高山脈や夕張山地がある島と、支笏湖火山がある島のあいだが土砂で埋められていくことでできた陸地だ。出土したタキカワカイギュウやキタヒロシマカイギュウの化石は、空知の南がかつて海だったことを教えてくれる。
太古に島がつながれてできた空知の南でいま、人を新たにつなぎ、そこから何かを結ぼうとしている動きが起こっている。「ジャパンアズナンバーワン」の1980年代からはるか遠くに流れ着いてしまった現代だけれども、それらは、報道としてわかりやすく紹介される種類の直接的な意味や利益のほかに、もっとふくよかな感覚や、心地良いコミュニケーションが豊かに響き合った世界ではないだろうか—。そんな予感と期待を胸に、空知の南の新動向をレポートしていきたいと思う。