函館傑士伝タイトル

函館の各界で活躍する函館人の心には、郷土の大先輩たちが生きている。
函館人が語る函館人の物語から、このまちならではの成り立ちやぶ厚い歴史が聞こえてくる。

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森由香─text 露口啓二─photo

田本研造(たもと・けんぞう)

1831(天保2)年、現在の三重県熊野市に生まれる。幕末の時代、長崎で医術を学んだ後、箱館に渡る。35歳の時に凍傷のため右足を切断。執刀したロシア人医師ゼレンスキーから写真術を学ぶ。1868(明治2)年、函館市内に写真館を開業後、北海道の開拓事業の撮影を開拓使より依頼される。いまも残る写真群は、日本最初のドキュメント写真として高い評価を得ている。人物写真では、箱館戦争の際に撮影した洋装姿の土方歳三が有名。近年は、函館市中央図書館に収蔵されていた大量のガラス原板から、田本撮影の原板も数多く見つかり、明治の函館を研究する手がかりとして注目されている。上の写真は晩年の田本研造(函館市中央図書館所蔵)

日本初のドキュメント写真の道を開拓した、
田本研造。

アナログからデジタルへ。よく耳にするフレーズだが、写真のフィルムからデジタルへの移行は、長いカメラの歴史の中でも革命的な変化だったはずだ。しかし、その切り替えのスピードは驚くほど速かった。デジタルカメラが一般市民に普及したのは1990年代。つまり、平成生まれの若者たちは、携帯電話にカメラが付いているのは当たり前で、フィルムのカメラは見たことも無い、という世代になっている。とはいえ、この革命もアナログの租がいてくれたからこそ。横浜、長崎とともに、日本三大写真発祥の地と呼ばれる函館で、ある写真師の足跡を追ってみた。

日本に写真が伝わったのは江戸時代、1848(嘉永元)年と言われている。あと20年で明治の朝を迎える頃だ。最初に伝わったのは「銀板写真」。露光時間が長く、1枚の撮影に15分もの時間が必要だった。まもなく発明された「湿板写真」は、ガラス板の上に感光材料を塗ることで、短い時間で鮮明な写真を撮ることを可能にした。しかし、感光材が乾かないうちに現像まで終えなくてはならず、野外で撮影をする時は、荷車にタンスのような暗室を積んで出かけていたという。

この湿板写真の技術を習得し、北海道の開拓の歴史を鮮明なビジュアルで残してくれた写真師が、田本研造(1831~1912)だ。
「当時の写真術は医術に分類されるほど、難しい技術だったようです。蘭学を学び、医者を目指していた田本だから習得できたのでしょうし、写真のレベルもすごく高い。大荷物の写真機材を持って、札幌や小樽まで行き、膨大な写真を撮っている。しかも、右足が無いにもかかわらずです」
そう話してくれたのは、函館市青年センターのセンター長、仙石智義さん。平成生まれではないが、34歳の仙石さんは、田本研造の仕事ぶりとクリエーティブなセンスに魅力を感じるという。

三重県の農家に生まれた田本は、家業を弟にまかせ、学問の道を選んだ。医者を志し、長崎で学んでいた時、師から箱館へ赴く若い通訳の同行を頼まれ、28歳で箱館へ渡る。その後も勉学に励んでいたが、35歳の頃、凍傷が原因で右足を切断することになり、医学の道を断念。そんな不運の中でも、手術をしてくれたロシア人医師から写真術を学び、明治の函館に写真館を開業するまでになるのだから、不屈の精神の持ち主だったに違いない。

田本の高い撮影技術は、北海道の開拓に着手した明治政府の目に留まる。開拓使顧問のケプロンは、開拓の過程を写真で記録することを提案し、政府はその撮影を田本に依頼。開拓事業を伝える日本初のドキュメント写真は158枚に及び、写真はウイーン万国博覧会にも展示され、日本の夜明けを世界にアピールする役目も果たした。この大仕事を終えたあと、田本はふたたび函館に戻り、変わる街並み、新しい施設、大切な行事などを“記録”し続けた。

明治5年撮影、函館から札幌に到達する札幌本道の開削写真(函館市中央図書館所蔵)

明治5年撮影、函館から札幌に到達する札幌本道の開削写真(函館市中央図書館所蔵)

明治29年撮影、函館の亀田・赤川間の道路鉄管敷設の写真(函館市中央図書館所蔵)

明治29年撮影、函館の亀田・赤川間の道路鉄管敷設の写真(函館市中央図書館所蔵)

函館生まれの仙石さんは、大学も、就職も、函館から離れる道を選ばなかった。古地図研究家としても名高い星野裕さんのデザイン会社に、グラフィックデザイナーとして入社。人気シリーズの「函館の古地図・古写真カレンダー」を担当し、田本研造に出会う。
「田本研造没後100年の2012年、記念すべき年に、田本が函館山から撮影したパノラマ写真の原板が見つかったのです。田本の写真は知っていましたが、実際にガラス乾板を見た時は衝撃でした。120年以上も前に撮影された写真とは思えない鮮明さで、たくさんの船が停泊する港から街の繁栄ぶりも伝わってきて。原板が出てきた年に、僕は青年センター長に就任したので、何か運命のようなものも感じました」
仙石さんは、函館山から同じアングルで夜景を撮影し、田本の写真と合成。好きな言葉である「温故知新」を毛筆で写真に重ね、センター長としての決意を記した年賀状を作った。

モノクロは田本研造(函館市中央図書館所蔵)、カラーは仙石智義さんの撮影

モノクロは田本研造(函館市中央図書館所蔵)、カラーは仙石智義さんの撮影

デザイナー時代に手がけたカレンダー制作が田本研造との出会い

デザイナー時代に手がけたカレンダー制作が田本研造との出会い

1969(昭和44)年に開設された函館市青年センターは、約40年のあいだ市と第3セクターで管理していたが、2010(平成22)年に民間から指定管理者を募集。応募し、翌年から運営しているのが「函館市青年サークル協議会グループ」だ。
仙石さんは19歳の時に、成人祭の実行委員になったことから協議会に入り、事務局長、理事を務め、若者たちの活動を支えてきた。もちろん、自らも好きな演劇や祭りの活動に打ち込みながら。
「青年センターがあったから、いろんなことに挑戦できた。だから、僕たちで管理をしよう、そう最初に言いだした責任も感じて、センター長を引き受けました」

函館市青年センターに入ると、大きなスケジュールボードがまず目に入る。体育館、クラブ室、会議室など、どの部屋もびっしりと埋まり、そのフル稼働ぶりに驚かされる。昨年の利用者数は6万人を超え、登録している青年サークルは約50件。協議会が管理するようになってから、利用率は年々上昇している。
仙石さんと若いスタッフは、利用者の「こうしてほしい」という声を丁寧に拾い、できることはすぐにやり、できないことはきちんと説明することで、誰もが使いやすく、集まりやすい施設を目指している。50年近くを経た建物はあちこちに傷みは見えるが、何か居心地の良さを感じるのは、歴代の青年たちの“愛着”が伝わってくるからだろうか。

「いまはデジタルに慣れすぎてしまって、逆に使いこなせない人も増えている。田本は、できることが限られている中で最大限の工夫をしていて、それはわかりやすい構図にもよく表れています。この『わかりやすく伝える』ことに徹したプロの姿勢に共感するし、今の僕の仕事にも生きています。相手が何を考えているか、求めていることは何か、常に頭に入れて仕事をしています」

長崎から函館へ、青年の田本は、世界に開かれた街で自分の夢を追い続けた。右足は失ったが、探究心を失うことはなかった。もし現代によみがえったら、デジタルカメラを駆使して、新たな世界を見せてくれることだろう。そのスピリットに共感する青年が、函館の街を愛し、そこに育つ若者たちの夢を応援している。田本がいまに残したものは、貴重な記録写真だけではなかったのだ。

仙石智義(せんごく・ともよし)

1982年、函館市生まれ。函館市青年センターのセンター長。2004年3月、公立はこだて未来大学卒業とともに同大学同窓会長に就任。卒業後はグラフィックデザイナーとして有限会社ビットアンドインクに勤務。函館古地図・古写真カレンダー制作に関わり、田本写真と函館の歴史に魅力を感じるようになる。12年1月より現職。最近はウォーキングとマラソンで健康的な身体作りを心掛けている。サイエンス・サポート函館 科学楽しみ隊、函館市成人祭祝賀行事実行委員、劇団G4(相談役)など多方面で活動中。