時代は明治初頭。北海道の近代的な開発のため、農業の発展は最重要課題の一つとされた。開拓使は1876(明治9)年、日本最初の官立高等教育機関として札幌農学校(のちの北海道大学)を開校する。このときに初代教頭(実質的には校長)としてマサチューセッツ農科大学から招かれたのが、ウィリアム・スミス・クラークである。
クラークは着任早々、開拓使長官・黒田清隆宛に次のような手紙を出している。農学校の開校式が1876年8月14日、その3週間後の9月7日に書かれたものだ。
「設備の良い農場を設け、これを外国人の農学担当の完全な管理のもとに置くことを提案いたします。(中略)この農場は札幌農学校の学生に、実質的農業、特に正しい農場経営法の適切な実地訓練を施すためのものであり、この際、労力節減、有利な作物と家畜の生産、土壌の生産力維持に十分注意を払わせるものです。…
最も合理的で確実な経済的農場経営を確立するため、費用に見合う作物と家畜のみを育成し、手動器具や人手はできるだけ農業機械と牛馬の働きに代えるようにするのです」(ジョン・エム・マキ著、高久真一訳 『W・Sクラーク その栄光と挫折』より)
この手紙から1週間後、クラークは黒田から承認の返事を受け取り、札幌官園の一部をゆずり受けて「農黌園(のうこうえん)」を設置。これがのちの第2農場となる。クラークは初代農場長を兼任した。このときの彼の喜びが、アメリカに残してきた妻への手紙に表れている。
「黒田長官は絶えず私に相談をもちかけ、いつも私の忠告や助言に従ってくれます。昨日、長官は開拓使庁舎の大きなモデル実験農場を私に引き渡してくれました。そこでは一〇〇人以上もの人が雇われて働いているのです。
身体の調子は上々、仕事に不足なく、さりとて出来そうもない仕事とてなく、雇主は理解があり、私の仕事を評価してくれ、実に事がうまくいっています」(同書より)
さらに同年9月下旬、クラークはマサチューセッツ農科大学で自ら設計した畜舎を手本に、W・ホイラーに模範家畜房:モデルバーン(耕馬、産室、雄牛追込所)の基本設計を描かせた。翌年には無事完成。地下1階、地上2階建て巨大な西洋式の建物は、当時の日本人にどんな風に見えたのだろう。
北海道大学総合博物館資料研究員として、第2農場を担当する北大名誉教授の近藤誠司さんがこう説明してくださった。
「想像してみてください。クラーク博士が札幌に来る数年前まで、日本は300年間の鎖国をしていました。箱館戦争で土方歳三が最期を迎え、そのとき運よく逃げ延びた少年兵がいたとしたら、その若者がやっと農学校に入るくらいの年代です。
そういう時代に、クラーク博士らはアメリカ式の最新の畜力畑作農業をここで実現しようとした。授業はすべて英語で行い、学生たちはそれについていく力を備えていたのですから、たいしたものだと思います」
農学校第2期生の新渡戸稲造が書いた授業のノートが、いまも第2農場に展示されている。美しい筆記体でびっしりと記されたノートから、新しい知識を勢いよく吸い込んでいる若者の熱量が伝わってくるようだ。
クラークはこの農場を、学生たちが作業を実践する場としてだけでなく、大規模な農業経営を行うビジネスモデルとして構想した。そのために様々な建物と多くの設備を整え、家畜の種類や頭数も多くなった。
土地を耕すために馬を、肉と乳を生産するために牛を飼い、乳はバターやチーズに加工した(乳は今でこそ飲料用を思い浮かべるが、冷蔵や流通技術が発達していない当時は保存可能な加工品にするのが基本だ)。乳加工の際に出るホエー(乳清)は栄養価が高いので豚に飲ませ、太らせた豚も肉用とした。家畜から出る下肥は畑にまき、そこで生産した草が馬や牛たちの飼料となった。
近藤名誉教授はいう。
「クラーク博士が目指したのは、土をつくり、草を育てることを基本にした循環調和型の農学であり、この基本は現代の私たちが目指すことと、そう大きくは変わりません。もちろん、いろいろな技術や設備は発展していますが、それらはいわばオプションであって、生きものがすることは不変ですから」
第2農場を見学していると、畜舎のなかで牛がモクモクと干草を食べていてもまったく不思議でない気がする。明るい光の差し込む馬房に、親子の馬が寄り添っていても驚かないと思う。むしろ、かれらのいないガランとした空間に少し寂しさを感じてしまうほどだった。
札幌農学校 第2農場
北海道札幌市北区北18条西8丁目
TEL:011-706-2658(北海道大学総合博物館)
屋外公開 8:30~17:00(通年)
屋内公開 10:00~16:00(通常4月29日~11月3日)
毎月第4月曜休館
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