幕末の北海道、根室地方の様子が詳しく記述されているものとして、松浦武四郎の日誌や出版物は、欠くことのできない資料である。なかでも別海町で所蔵し、展示公開している「加賀家文書」のほとんどを書き残した加賀伝蔵の記述は、一層興味をそそる資料となっている。
『戌午第十八巻東部志辺都誌』『近世蝦夷人物誌農夫茶右衛門』『戌午知床日誌』には、シレトコへの調査のため、土地に詳しいアイヌを伝蔵に依頼していることや、野付半島での農耕のことが、紹介されている。
伝蔵は、文化元 (1804) 年、現在の秋田県八峰町八森で生まれ、15歳で蝦夷地(釧路場所)へ渡り、場所請負人の下で働き、飯炊き、帳場手伝い、番屋守、アイヌ語通辞(通訳)、支配人を務め、一生の大半を蝦夷地で過ごした。いわゆる、蝦夷地の場所を現地で差配するスペシャリストとして、釧路場所で修業を積み、根室場所へ移り、後年は会津藩より大通辞の称号を与えられた。
加賀家に残された文書資料は、御用文書、アイヌ語辞書、地図、写本など多種多様で、当時のアイヌ民族資料、生活資料も大切に保存されていた。
その中の資料に武四郎から伝蔵に宛てた書簡や武四郎の出版物が含まれ、その内容は、武四郎と伝蔵の信頼関係を示す資料と考えてもよい。書簡は6通あり、1通は安政5 (1858) 年、シレトコの旅の途中から、残り5通は江戸で執筆中のものである。江戸から送られた書簡の内容は、蝦夷地のことや旅に同行したアイヌのことを心配し、伝蔵にその保護をお願いしていることや、江戸や京都の幕末の動乱の様子などが、書かれている。
そして何よりも信頼関係を示す内容は、江戸で手に入らない鮭の筋子を伝蔵にお願いしていることである。伝蔵が鮭の筋子を送ると、武四郎は自分の出版物を書簡に添えて送っていた。現存しているもので、日誌類が6冊、山川地理取調図が28部ある。安政5 (1858) 年に野付半島先端にあった野付通行屋で出会い、意気投合した二人の交流の証が「加賀家文書」として代々に渡り大切に保存されてきた。
武四郎の午十五番手控(野帳)には、場所三役(支配人・通辞・帳役)のアイヌに対する五段階評価ともいうべき一覧がある。その中で伝蔵は数少ない「上」の部に位置付けられ、武四郎が江戸に帰ってから交流のあった場所三役は、唯一加賀伝蔵一人であり、互いに信頼関係があったことは、間違いないと思われる。