海に、大地に、人々の挑戦は続く

1946年、標津村から分村した内陸部の中標津村(現中標津町)は、根釧原野の酪農発展における中心地の一つ。現在、中標津町開陽台から望む広大な景色は、気が遠くなるほどの開墾作業の積み重ねから成り立っている。畑の間に太く濃く走る緑のグリッドはこの地域独特の「格子状防風林」。夏の海霧や冬の風雪の被害を防いでくれる

日本が世界に肩を並べようと邁進した明治時代、根室海峡沿岸は「日本の東門」として発展と安定が求められた。しかし、天然の鮭に頼った漁業は次第に資源が枯渇。沿岸部では、漁師が副業に畜産を行う半農半漁の暮らしがみられ、内陸部では新しい農業が幕を開ける。
石田美恵-text 黒瀬ミチオ-photo

不漁に耐える

『標津町史』に、鮭漁についてこんな記述がある。
「大正二年以降は、大正十、十二年の豊漁をのぞいて不漁の連続であり、漁業不振のどん底であった。その日の生活にもこと欠く者が続出し、親子心中の噂もあり、宮田岩松漁場主が発狂したと噂されたのもこの頃である。このため茶志骨から野付へかけて辛うじて経営を維持出来たのは碓氷勝三郎漁場と、金田弁次郎漁場だけだったといわれる」

鮭漁の不振は、人々を心中や発狂にまで追い込んでいたのだ。このころ設立された標津村茶志骨(ちゃしこつ)漁業組合では、凶漁対策のため、漁具の改善などとともに仔馬の飼育を推奨。日清・日露戦争をきっかけに高騰した馬は貴重な現金収入となり、苦しい漁師たちの生活を支えた。馬だけでなく牛の飼育も積極的に行われ、碓氷、藤野の缶詰工場でも原料の鮭鱒が減少したことから大規模な牧場経営に乗り出している。また、鮭、鱒、鰊の漁業経営を目指してやって来た移住者が、漁業をあきらめて畜産業に転身した例も多いという。

漁業本体での対策も当然行われた。1891(明治24)年、西別川に根室水産組合により初めて人工ふ化場が建設され、翌年に標津川、羅臼川、忠類川にもそれぞれ施設が完成。根室海峡沿岸部は、北海道でもっとも早くふ化事業体制が整った地域となる。ただし、その成果が実を結び、鮭の来遊数が急激に増えるのは1970年代になってからのこと。それまでは長く不振にあえぎ、鮭を補うようにホタテや昆布、ホッカイシマエビなどが盛んに水揚げされるようになった。

「鮭だけに頼らないように、親父は弟に鮭定置網を、私に鮭以外——オヒョウやカレイの延縄、カスベの刺し網、コマイ、ホッケの底建て網、カニ、エビのかごなど、“雑もの”をやらせたんだと思います」
そう話すのは、標津町伊茶仁(いちゃに)で漁業歴43年の馴山修治さん。30代で実家の網元を継ぎ、1995年に標津漁協サケ定置部会長となり、標津の鮭を海外へ輸出する先鞭をつけたり、ハサップ導入の必要性をいち早く説いたり、様々な危機に対して打開策を打ち出してきた人物だ。

長年鮭を見続けてきた馴山さんの言葉は、静かに重く、たくましい。
「昔はまちの人に『鮭漁師には金も物も貸すな』と言われていました。1970年代から漁獲量が増え、1985年から2007年ころまで好調でしたが、いまは再び低迷の時代です。原因は一概には言えませんが、ロシアの定置網漁が盛んになったことも一つでしょう。ともあれ、どんなときも諦めずに方法を見つけて、仕事をつないでいくことが大事です」

野付半島で見かけた霧の中の馬。かつて漁師たちの暮らしを支えた馬の子孫かもしれない

野付半島に残る海辺の牛舎跡。この辺りでは、兄が漁業、弟が畜産業と兄弟で分業していた家もあったという

馴山水産会長の馴山修治さん。「秋鮭は尾っぽの方が好きです。運動量が多くて身がしまっているからね。それと、鮭は獲ってすぐは食べません。山漬けにしておいて、時期になったら塩出しし、切り身で焼くのが一番うまい」

馴山さんに鮭定置網の設計図を説明していただいた。長い時間をかけて改良が重ねられ、実に緻密で合理的。網に入った鮭が泳ぎ回るところを「運動場」、船から引き揚げるところを「金庫」と呼ぶのが面白い

根釧原野、酪農の幕開け

碓氷や藤野など、資金のある漁業家による牧場の創設が相次ぐ一方、内陸部の開発はなかなか進まなかった。その理由の一つに、1886(明治19)年から和田村(現根室市)に入植した屯田兵の失敗がある。屯田兵440戸が入植して大農村を作ったものの、農業経験がない士族集団であったことや、森林が濃霧発生の原因だと誤って木を伐採し、海霧や強風の害が多かったことなどが重なり、「根室地方は農業に適さない」という誤信が広がってしまったのだ。しかし、その後の調査で農耕適地であることがわかり、1910(明治43)年、別海村中春別地区に北海道庁根室農事試作場が設置され、農耕不適という噂はくつがえされた。

標津村の内陸部(現中標津町)で、本格的な農業開拓が始まったのもこのころである。
1911(明治44)年、徳島県民と静岡県民によって構成された「徳静団体」13戸が初めて移住、その後、移住者が相次いだ。だが、当初は穀類と豆類を中心とした穀菽(こくしゅく)農業が行われたため、冷害や濃霧に大きな影響を受ける。村は人々の暮らしを安定させるため、乳牛の飼育、木炭窯の改良、農機具の購入を奨励。1922(大正11)年には道費2割の補助を受けて乳牛120頭を導入し、村の希望者に売り渡しを行った。

こうした流れを受けて、徐々に乳牛の飼育が広まり始める。1925(大正14)年に「中標津の酪農のパイオニア」とよばれる後藤卓三が初めて集乳所を開設すると、それまで乳をしぼっても売るすべがなく、子牛に飲ませるか自家消費するしかなかった人々が、遠くからも生乳を搬入するようになる。また、その1年前の1924(大正13)年、厚床-中標津間に日本初の殖民軌道が開通。未整備だった原野を、多くの人と物資が移動できるようになった。

こうして大正期には多くの移住者があったものの、たび重なる冷害凶作により、その3分の2が離農するほどの厳しい状況が続いていた。それをなんとか持ちこたえられたのは、1923(大正12)年の関東大震災の罹災者救済と、北海道開拓の労働力確保のため国の救済措置があったことが大きい。1927(昭和2)年に国費によって北海道農事試験場根室支場が建設されると、当時めずらしかったコンクリート造りの立派な建物を見て、この地に移住を決めた人もいたという。

しかし、原野の開拓はそう簡単には進まない。
1931(昭和6)年の冷害凶作、1932(昭和7)年の大晩霜被害により、移住者たちは壊滅的な打撃を受ける。北海道議会では根釧原野開発放棄論が主張されるほどで、移住者からは転住請願、ムシロ旗を立てての村民大会が相次ぎ、社会的にも大きな騒動となった。地域の歴史に詳しい中標津町郷土館長の山宮克彦さんは言う。
「開拓民募集の宣伝では、『米も野菜も取れるし、鮭は飽きるほど食べられる』はずだったのに、騙されたという気持ちだったのでしょう。開拓民は畑に植えた種イモまで掘り返して食べなければならないほどで、当時の北海道長官が現地を視察した時の回想では『中標津では薄暗い殺気さえ感じた』と書き残すほど荒んだ状況だったようです」

移住者たちによる命がけの陳情の末、北海道は「根釧原野開発5ヵ年計画」を策定し、「自力再生」をスローガンに掲げて1933(昭和8)年から計画を実施した。この計画により、根釧原野は従来の穀菽農業から酪農へと大きく転換が図られる。とはいえ、酪農王国といわれるようになるまでには、昭和30年代から着手された国営パイロット事業をはじめ、まだまだ多くの挑戦が続く。

中標津町郷土館長の山宮克彦さん

1927(昭和2)年、北海道第2期拓殖計画において試験研究機関として設置された旧北海道農事試験場根室支場庁舎。当時コンクリート2階建ての建物は道内でも珍しく、見知らぬ土地で心細い思いをする移住者たちに安心感を与える存在だった。この建物は、「伝成館(でんせいかん)」と名を変え、現在も事務所などに使用されているが、周囲には殖民地区画を基に設定された試験圃場や、松野傅(まつのつとう)初代場長が昭和初期に試験場内の道路に設定した白樺並木など、昭和初期の開拓景観が今も残っている

7月初旬、波のように草がうねる採草地。現在、中標津町の酪農家は平均110頭の乳牛と約63haの採草地を所有し、北海道有数の大規模酪農経営を行っている。かなたに見えるのは知床から摩周・阿寒へ続く山並み

人とモノを運ぶ道

沿岸で発展してきた漁業、内陸で進められた農業、そのどちらにも欠かせないのが、交通だ。
明治から昭和初期まで、北海道開拓を進めるために作られた独特の交通機関に「駅逓」がある。駅逓所は馬を使って次の地点まで人や物資を運び、食事や宿泊などの機能も備えていた。いまでいうと、駅兼食堂兼商店兼ホテル、といったところだろうか。未開の地にまず駅逓所がつくられ、その地域の入植が一段落すると廃止される仕組みで、この制度が終わる1947(昭和22)年まで道内に600以上が設置された。

標津や別海、斜里にも多くの駅逓所が置かれた。そのなかの一つ、別海町でいまも唯一保存され、最近往時の姿に改修された「旧奥行臼(おくゆきうす)駅逓所」を訪ねた。太い木材を使った柱やしっかりした土台が立派な建物で、明治時代この場所に、これほどのものを造るのはさぞ大変だったと思う。奥行臼地区には、駅逓所のほか、国鉄標津線の旧奥行臼駅、別海村営軌道の旧奥行臼停留所という3つの時代の交通遺産が保存されている。別海町教育委員会で地域の文化財の保存、活用に力を入れる戸田博史さんは「地域の交通や産業の変化が実感できる、ユニークな歴史スポットだと思います」と言う。
「標津線は、根室海峡の鮭へとつながる道として多くの人の往来を促しました」。そう話してくれたのは、標津町ポー川史跡自然公園の学芸員、小野哲也さんだ。
鮭漁の時期は、網入れから水揚げ、そして加工も含めて多くの労働集約が求められ、漁期には地域だけでは賄いきれない労働力を外から招き入れる必要があった。1937(昭和12)年に全線開通した国鉄・標津線は、まだ秋鮭不漁だった開通当時から、遠く青森から来る出稼ぎ労働者たちを乗せて走っていた。1970年代から鮭漁が復活し、前年比2倍の漁獲量更新を繰り返すようになると、出稼ぎ労働者たちの往来はさらに活発になっていく。「青森衆」と呼ばれた彼らは、秋になると布団を抱えて標津線に乗り、終着の根室標津駅に降り立つ。そして嵐のような鮭漁シーズンを終えると、今度は根室標津から故郷へと帰る。その際、列車から何本もの紙テープがのび、盛大に別れを惜しんだという。

もちろん、水揚げ後塩漬け加工した大量の鮭も、標津駅から貨物列車で全国へ向けて出荷されていった。また、昭和30年代には近代酪農のスタートとなる根釧パイロットファームへの入植者を乗せ、昭和40年代以降は北海道観光ブームに魅せられた多くの観光客を乗せて走った。
明治時代の駅逓の馬も、昭和の標津線の列車も、たくさんの夢と野心と、大きな不安、心細さ、家族や故郷への思い、多くの人の様々な感情をぜんぶ一緒に積み込んで、この地を走っていたことだろう。

標津線路線図。標茶駅から根室標津駅(標津町)に至る本線と、中標津駅から厚床駅(根室市)に至る厚床支線があった。1989(平成元)年に全線廃止となり、バス路線に転換されている(出典:根室市・中標津町・標津町・別海町・標茶町1989『彩雲鉄道』)

3年間の保存修理工事が完了し、2019年5月1日に一般公開が始まった史跡旧奥行臼駅逓所。奥行臼駅逓所は1910(明治43)年設置、1930(昭和5)年に役目を終えて廃止された。その後1941(昭和16)年に建物を大きく改造し、旅館として使われた

1920(大正9)年に建てられた北棟部分。今回美しい柾葺屋根が復旧された

駅逓2階の客間。当時使われていた形のランプも再現

標津線・奥行臼駅は標津線のなかで別海駅と並んで最も古く、55年間にわたってまちの発展を支え続けた

当時のままの駅舎、ホーム、線路が残り、いまにも列車が到着しそうな雰囲気だ

別海村営簡易軌道風蓮線は1963(昭和38)年に奥行臼駅から上風蓮小学校前まで開通。牧場でしぼった牛乳を運搬するのが主な目的だったが、モータリゼーションが進行し、わずか8年後の1971年で廃止となった。停留所跡地に駅舎詰所と転車台、オレンジ色の自走客車、ディーゼル機関車と貨車(ミルクゴンドラ)が保存されている

標津線の始発・終着駅、根室標津駅を特徴づける転車台と機関車。標津町文化ホール(標津町南1条西2丁目1-1-2)横の広場に保存されている

旧奥行臼駅逓所
北海道野付郡別海町奥行15-12
TEL:0153-75-2111(別海町教育委員会)
公開時間:10:00〜16:30
休館日:月曜(祝日の場合は開館)、冬期(11/4~4/30)
入館料:無料
WEBサイト

旧奥行臼駅
北海道野付郡別海町奥行16-29
TEL:0153-75-2111(別海町教育委員会)

旧別海村営軌道風連線奥行臼停留所
北海道野付郡別海町奥行15-55
TEL:0153-75-2111(別海町教育委員会)

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