いま、というよりも「いまのうちに」訪れるべき産業遺産として、タウシュベツ川橋梁はやはり外せない。旧国鉄士幌線のコンクリート製アーチ橋で、ダム湖に沈んでからも、1月から9月・10月にかけて湖面から優美な姿を現してくれる。「幻の橋」として有名になったが、劣化が進み崩落の危険性があるため、早めに訪れることをお勧めしたい。橋梁まで続く林道は一般車通行止めだが、国道273号線沿いに展望台がある。また、見学ツアーに申し込めば、橋梁を間近に見ることができる。
タウシュベツ川橋梁だけでなく、旧士幌線の遺構(橋梁群、線路跡、駅跡)は、上士幌町の糠平周辺に多く残存しており、自然景観と調和した橋梁群は一見の価値がある。NPO法人ひがし大雪アーチ橋友の会など有志の手により、遺構の保存運動や線路跡を利用した観光トロッコの運行が行われているのも特徴である。現地ではこうした地元の方のお話にも耳を傾けてみたい。
赤平市の住友赤平炭鉱といわば兄弟格であったのが、三笠市の住友奔別炭鉱である。そのシンボルである立坑櫓は、往時の最新技術を駆使して1960年に完成したもので、「東洋一の立坑」と呼ばれた。一方の住友赤平炭鉱の立坑は1963年の完成で、両者を比べることでこの3年間における技術の進歩を学ぶこともできる。しかし、採掘条件の悪化や退職者の増加などの要因が重なり、立坑完成からわずか11年の1971年に住友奔別炭鉱は閉山を迎えた。
赤平市の所有となり一般公開された住友赤平炭鉱の立坑とは異なり、基本的には一般の立ち入りは禁止され、外観のみ敷地外から眺めることができる。ただし年に数回、所有者とNPO法人炭鉱の記憶推進事業団の協力の下で一般公開が行われている。一般公開時には、立坑の奥にある大規模なホッパー(石炭の貯蔵・積み出し施設)を間近で見ることもできる。2019年に日本遺産に認定された「炭鉄港」の構成資産でもある。
小樽運河の保存運動は、日本における産業遺産保存の先駆者である。ただ、その結実として過度な観光地化が取り上げられることもある。小樽駅から続く中央通を下り、運河に突き当たって右へ曲がると、確かにそこには観光地としての小樽運河の姿がある。しかし左へ曲がると、観光者は徐々に減り、小型船が係留された運河沿いに倉庫が立ち並ぶ、別の小樽運河の姿を見ることができる。このエリアは、活況を呈した港湾都市小樽の姿を今に伝えている。
その運河に並行するように、やや山側に続くのが旧国鉄手宮線の跡である。手宮線は、北海道で最初に敷設された鉄道で、主に空知地方の石炭を小樽港まで運んだ。その跡地では「雪あかりの路」などのイベントが開かれ、終着駅であった手宮駅跡は小樽市総合博物館として活用されている。市民の手によって残された運河と鉄道跡からは、小樽が北海道の産業化に果たした役割を学ぶことができる。
古代ギリシアを思わせる柱廊に半円形のドームが乗った美しい防波堤。稚内駅至近の稚内港北埠頭に、1936年に完成したものである。稚泊航路と呼ばれた旧樺太(サハリン)への船舶や旅客を護るために築かれたこの壮大な防波堤は、戦後も、利尻島や礼文島に渡る船が発着するフェリー埠頭を護り続けてきた。
時代とともに役割を変えてきた稚内港だが、近年は「ボーダーツーリズム(国境観光)」の拠点としても注目された。ボーダーツーリズムとは、国境を「ゲートウェイ」として捉え、国境で隔てられた2つの空間を体感しながら、国境地域の文化や暮らしを体験する観光を指す。稚内はサハリンへの「ゲートウェイ」であり、市内にはロシア語の案内や標識も目立つ。サハリンへの航路が2019年に休止されたのは残念なことだが、北防波堤ドームを入り口に、市内に点在するボーダーツーリズムの資源を巡り、稚内とサハリン双方の歴史と現在に思いを馳せてみたい。
函館とコンクリートという結びつきは意外なものに思われるかもしれない。しかし函館には、日本最古の鉄筋コンクリート寺院である東本願寺函館別院(国指定重要文化財)をはじめ、多くのコンクリート建造物が存在する。これは、函館が度々大火に見舞われる都市であったことから、耐火建築が奨励されたことによるもので、同時に開港都市函館の経済的な繁栄も物語る。また、近代土木の父とよばれる廣井勇は、明治中期に函館港の改良工事に取り組み、その際にもコンクリートが用いられた。後の土木技術の発展に寄与するさまざまな実験や工事が函館港で行われたのである。
近郊の北斗市では、石灰石を産出する峩朗鉱山が現役で、そこから切り出された石灰石は太平洋セメント上磯工場でセメントの原料として用いられる。このように、函館・北斗ではコンクリートの歴史から地域との関わり合い、現在の生産に至るまでのさまざまな側面を学ぶことができる。一般に知られるのとは違う角度から地域を眺めることができるのも産業遺産の特徴だ。