産業遺産への白地図-1

地貌を読み解くレッスン

石狩川河口から陸側に石狩灯台をのぞむ。石狩の美しい地貌だ

その土地にどんな人が暮らし、どんな営みがあったのか。土地の風土が何を生み出し、それが現在の何と結ばれているのか—。産業の歩みを入り口にすると、風雪にきたえられたまちの素顔が見えてくる。産業遺産を歩くための準備を考えてみよう。
谷口雅春-text&photo

風土には固有の貌がある

「ことばには貌(かお)がある。そのことばが使われている土地の貌が言葉に映し出されている」
俳人宮坂静生(しずお)は、著書『語りかける季語 ゆるやかな日本』の冒頭でそう宣言する。宮坂は、土地の貌が映し出された言葉を「『地貌』の言葉」と呼んだ。地貌とはもともと地理学で土地の形態をとらえる用語だが、宮坂はこれを、四季を通してその土地で繰り広げられる自然現象と人間の営みの総体をすくいあげる固有の器として用いた。
宮坂の『季語体系の背景』には、「北緯四〇度以北—北海道」という章がある。ここでは北海道の地貌をあらわす季語として、「笹起きる」、「蝦夷梅雨」、「枯れどぐい(イタドリ)」、「けあらし」などが上がっている。森の雪が溶けて林床のササが起き上がったり、6月に冷たい雨が続いたり、イタドリの群落が立ち枯れている初冬の原野のもの悲しい風景は、北海道人にとってはなじみ深いものだ。陸の寒気が海や川の上に流れてその温度差によって霧になる現象も、内地の人々から見ると北海道らしい風物となるのだろう。
信州生まれの宮坂はかねてあこがれだった釧路湿原の一角を歩き、「六月や鶴を窺(うかが)う北きつね」と詠んでいる。

晩秋に本州に行くと、たわわに実をつけた柿の木のある農村風景に強く惹かれる。北海道ではほとんど全く見ることのないものだからだ。造園学・農学の進士五十八氏はある講演で、日本人の心の奥底の感性をふるわせるのは柿の木のある風景だと語っている(2010年。中野区立哲学堂公園「哲学の庭」1周年記念講演)。鮮やかさはないが、柿の色こそ日本の色。さまざまな芸術のモチーフであり里山のエッセンスなのだ、と。江戸時代の日本には水系ごとに分水嶺を越えれば土地固有の柿が3000種以上もあったというが、ならば北海道の風土はやはり日本(内地)の枠組をはみ出ているのだろう。
益子(栃木県)を歩いているとき、農家の庭先の柿の木の写真を撮っていると、怪訝な顔をしたおばあさんに話しかけられたことがある。なぜそんなありふれたものを撮っているのか、理解できなかったのだ。その感じは、札幌の時計台の敷地で喜々として雪だるまを作りはじめてしまう台湾のツーリストに、僕たちが苦笑を向けるようなものだったのだろう。

新制北海道大学法文学部の教授として赴任した(1947年)国文学者風巻景次郎は、ブラキストン線(津軽海峡を境界とする動物相の分布線)以北の土地の風土を、万葉集や古今集の感性ではとらえられないものとして、いくつかの随筆を残した。短歌誌「新懇(にいはり)」に書いた「北のはての地に」(1954年)にはこんな一節がある。

北緯四十度圏の北海道では自然は人に対立する。人が人らしい環境に生きようとすれば、人は人工的に自然に対して立たねばならぬ。家一つたてても、都会一つをつくっても、すべてそうである。ここの自然はひたすらに激しい。その明るさは冷たくて真空である。われわれはここではつきつめた人生の考え方に追いやられる。天国と地獄とがここでは対立する。神秘と汚辱が、清澄と醜悪とが、神と悪魔とが、智恵と肉慾とが、柔和と冷酷とが対立する。それは、旧日本にはあり得なかった精神の生長の地盤である。
北緯四十度圏の北海道の自然の見てくれが、本州や九州と違うだけでない。そこでは自然と人間との関係が違っていることを身にしみて感じないではいられない。つまりそれは二千年の間にアルプスの北側にヨーロッパ文化を育成していった、あの北緯四十度圏と親しい類似を持った自然である。そこでは人間は考える葦となって、天につながろうとし、肉感にまみれて、地上に人工の花を開く。北海道にもそういった人間の野望が生まれていいではなかろうか。三十度圏の日本に真似てはならない。

「中央」が日本列島を一方的に均質化した現代では考えにくいことだが、関西出身の風巻にとって、札幌との出会いはこれほど鮮烈だった。こうした論考は、「かつてありえた北海道」を構想するときに欠かせないリソースであり続けるだろう。

「地貌」をめぐる宮坂静生の著作。『語りかける季語 ゆるやかな日本』、『季語体系の背景』

社会にアーカイブズがある意味

「地貌」という言葉を教わったのは、歴史学者大濱徹也(1937-2019)先生からだった。宮坂静生が唱える「地貌」を援用しながら大濱さんは、地域が共有しているはずの小さな記憶のかたまりを、人々の思いや体験の根元からほぐしていくことで、地域は固有の貌を自画像として描けるのだ、と言っていた。大地の記憶に彩られた地貌を読み解くことが、地域史を歩くことになる。
大濱さんが最も嫌ったのは、本来は多様であるはずのさまざまな史実や挿話を、国家やそのときどきのイデオロギーの大きな鋳型にはめ込んで、それで良しとする態度だった。そうではなく、地域が自らを主語にして世界と関わり、自分の言葉で自分を語ること。それがめざすべき地域史なのだ。

筑波大学を退官して2001年から北海学園大学に赴任した大濱さんは、キリスト教を軸にした北海道の宗教史研究や、天塩町の調査、天塩町史の編纂など北海道でも幅広い活動を行ったが、力を入れた仕事のひとつに、地域や行政史のアーカイブズ(記録資料群の収集・管理・活用)事業がある。正史のエッセンスであるアーカイブズとは、公立文書館や図書館、博物館などの公共施設がその機能を担っているが、近年はテーマや地域をしぼった在野の活動も起こっている。
アーカイブズは歴史研究のための専門施設ではないし、公文書館は古文書館ではない。大濱さんは、アーカイブズとはまず何より市民のためにあるものだと繰り返し主張した(この市民は単に歴史好きな市民ではない)。古文書を収集・保管して学問に供するといった機能は、アーカイブズの役割のほんの一部にすぎないのだ。
著作『アーカイブズへの眼』とふたつの講演、「札幌市公文書館の使命と課題」(2014年札幌市)と、「福岡共同公文書館開館5周年・現在アーカイブズには何が問われているか」(2017年筑紫野市)で語られた内容をもとに、アーカイブズの意味や価値を整理してみよう。

欧米には古くから、物事を記録して必要に応じて検証する文化がある。その起源は例えば旧約聖書のエズラ記にさかのぼることができるという。エズラ記では、ユダヤの民がバビロンに連れて行かれたバビロン捕囚からの解放が説かれている。ペルシャのキュロス王がバビロンを亡ぼしたことで解放され、エルサレムに帰って国づくりをはじめたユダヤの人々は、まわりから妨害を受けた神殿の再建の正当性をダリウス王に訴えた。根拠としたのが、自分たちがかつてキュロス王にこの計画を認めてもらったことだった。ダリウスは王宮にある記録保管所の記録を調べさせて2代前のこの事実を確認すると、神殿の再建は認められる。記録による統治の文化は、この紀元前6世紀の時代にすでに確立されていたのだった。

戊辰戦争に勝利した明治政府は欧米の統治システムを必死に学んだが、長州出身の伊藤博文は、現在の会計検査院につながる部門を大蔵省に設置して、国家財政にかかわる説明責任を負わせている。行政組織の記録・公文書管理の問題は、明治の末、日露戦争(1904-05)後の社会の閉塞感や地域の疲弊を立て直すために広がった地方改良運動でも、行政記録を検証することで町政改革の針路を見出そうとする動きをつくる。こうした視座が、必要に応じて国家全体のあり方を問い質す意識と手法を育むことにつながっていった。
戦後国立国会図書館が設立されるに際して定められた国立国会図書館法の前文には、ヨハネによる福音書にある一節をもとにした文言が置かれた。すなわち、「真理がわれらを自由にする」—。大濱さんはこれを、「日本が再生していくうえで、国民が主権者として統治を検証していく覚悟、その拠り所となる基本的な姿勢が盛り込まれている」と言う。

札幌市文化資料室が札幌市公文書館(2013年開館)に再編されるに当たって大濱さんは、札幌市公文書管理審議会会長を務めたが、札幌での講演で、同館の制度設計は「公文書等の知的情報資源が役所の各部局・機関で必要とする公用財ではなく、市民との共有物である公共財とすることで、統治を検証する器となりうるように位置づけている」と述べている。そして、文書館の仕事は、こんな「お宝」があるからご利用くださいという静態的なものではなく、積極的に行政利用への働きかけをしてその存在を輝かせてほしい、と続ける。公文書は研究者のためではなく、何よりまず、市民の自治意識を育み鍛える、民主主義のためにあるのだ。
カイのスタッフの中でも、もっぱら札幌の古写真や郷土資料の相談に行く場所として位置づけられていた札幌市公文書館だが、大濱さんの教えで大きく目を開かれた。

『アーカイブズへの眼』(大濱徹也)は、地に根ざし社会に開かれたアーカイブズの針路を問う

過去と未来は繋がっていない

「産業遺産」をめぐるサイドストーリーである本稿だが、初回は産業遺産や産業考古学に対する立ち位置を考えたいと思った。そのための入り口が「地貌」であり、「アーカイブズ」だ。「地貌」は、自分が暮らす土地の自然現象と人間の営みの総体をすくいあげる固有の器としてあり、「アーカイブズ」は、地域の正確で詳細な歴史を公共財として収集・管理・活用する機能だ、と述べた。産業遺産は、例えば両者が交わるところに成立するものだと思う。

アメリカの政治哲学者マイケル・ハートは、コモンという概念を打ち出している。「民主的に共有されて管理される社会的な富」のことだ(『未来への大分岐』斎藤幸平・編)。つまりそれは、人々にその価値を見出され、国有でも私有でもなく、民主的に管理されるべきもの。ハートは、困難であってもコモンをめぐる取り組みが民主的な政治と制度のための基礎となると主張する。産業遺産の意味や針路もまた、この方向を向いて、地域に新たな価値や富をもたらしていくのではないだろうか。

地貌へと結ばれた地域の産業史を公共財として見出していくことは、地域史の探究にとどまらない広がりをもつ。大濱徹也が、公文書館は単に歴史学のためにあるのではない、と唱えたのと同じ文脈だ。
過去は、そのまま無条件に未来へと繋がっているわけではない。現代の人々が固有の思いや手法をもって自ら繋げていくことではじめて、固有の未来が現れる。日本列島の産業文化がいまのように均質化する前。産業遺産や産業考古学は、「かつてありえた北海道」の時代の地図を作り直すことができる。地域の未来づくりのために、かけがえのないリソースとしての産業史を入り口にすることの可能性が、そこに眠っているにちがいない。