産業遺産への白地図-2

記録と記憶の境界を耕す

晩秋の野幌自然公園を大沢口から入る。明治・大正期に道央の開拓が進む中で残された、貴重な森が広がる

産業遺産の森に分け入ると、モノや映像や文字だけでは捉えきれない地域史が見えてくる。そこから人はどう進めば良いのだろう。手がかりは、語りや言い伝え、民話、伝説—。それぞれに定義の輪郭が微妙にずれていくこうした伝承の、重なりの部分のことを考えてみたい。
谷口雅春-text&photo

伝えることが歴史をつくる

十勝の浦幌町立博物館で開かれている企画展について、同館学芸員の持田誠さんが興味深いエッセイを北海道新聞に寄せていた(2019.12.13夕刊)。展のタイトルは、「信仰の灯は永遠に:福音ルーテル池田教会と吉田康登牧師の足跡」(1月19日まで)。この夏に歴史を閉じた池田教会(十勝管内池田町)と、戦後入植で長崎県から浦幌へ渡り、やがてこの教会を立ち上げた吉田牧師らの歩みをたどるもので、展示室には池田教会の内部の一部も再現されている。
持田さんは文中で、日本では自治体が編纂してきた市町村史にもキリスト教史の記述がきわめて少ないことに触れ、それはモノから地域史を記録する博物館でも同様だと書く。そして教会に集った人々にとって礼拝の場は、各地のたくさんの寺社と同じく生活に欠かせないものであり、その歴史をなかったものにすることは、まちの形成や発展の歩みで教会が果たした役割をなかったものにしてしまうことではないかと、問いかける。

史実の記述も実物資料(モノ)や映像にも乏しい歴史を、後世にどのように伝えていったら良いのか。あるいはその前に、自分の暮らしの最低限の領域にしか興味がなく、寺院の除夜の鐘の音がうるさいと苦情を訴える人さえいるような現在では、地域の歴史を伝えていくことの意味をあらためて根底から考え直さなければならないのだろうか。そうした自問は、産業遺産の意味や価値を求める人たちの前にある壁でもあるだろう。

歴史を伝えるための、書物やモノとはちがう方法として、例えば口頭による伝承がある。
文化人類学者川田順造は『口頭伝承論』の冒頭で、1970年代に西アフリカで進めた研究の立ち位置を説明している。川田は、歴史の範疇には入らない昔話や歌やことわざなどの口承の分野、さらには音楽を含めた社会の音の領域や舞踏などの身体表現の世界までをまずすべて受け入れ、その中に歴史的領域を振り分けて探求を進めた。それはつまるところ「史」と「詩」の関わりをめぐる模索だった。

浦幌町立博物館の持田誠さんから、空知の炭鉱史を関係者からの聞き書きを軸に探求している鈴木里奈さん(北海道大学大学院:観光創造専攻)を紹介していただいた。鈴木さんは、地底深くで石炭を掘り続けた山の男たちやその家族だけではなく、炭鉱まちの役場や商店街、病院の人々など、炭鉱の営みをめぐるさまざまな人々の思い出を幅広く集めて、記憶と記録の境界域を観光学の枠組みで考察している。当事者から家族、関係者、そしてツーリストまでを含めた人々の動向や思いを「帰郷」というテーマから見すえたいと聞いて、とても面白いと思った。過去は何よりもまず、現代に生きる人間が帰って行くべき場所なのだ。

浦幌町立博物館「信仰の灯は永遠に」展ポスター

記述と語りが交差する

記(しる)すことと語ること。中島敦の「文字禍」は、このふたつをめぐる迷宮のような濃密な短篇小説だ。
アッシリアの図書館の闇の中で、毎夜あやしい話し声がする不思議な事態が起こった。王は老博士に謎をさぐらせる。この時代の本は紙ではなく、粘土の板に楔形(くさびがた)の符号が彫りつけられたものだ。万巻の書と交わるうちに博士は文字の霊の存在を確信する。市街で人々に聞いてまわると、文字を覚える以前に比べて職人は腕がにぶり、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損うことが多くなったことが分かってきた。エジプト人はある物の影をその物の魂の一部と見なしているようだが、文字は、その影のようなものではないのか。書かれなかったことは、無かったこと。歴史とはこの粘土板のことなのだ。
老博士は文字の霊に取りつかれた。彼は怖くなって早々に研究報告をまとめて王に献じた。そこには、文字への盲目的な崇拝をやめなければ大変なことになるという意見がしたためられていたが、王はこれに激怒。博士は謹慎の身となる。数日して大地震が起こり、博士は自邸の書庫で、崩れた数百枚の粘土板の下で無残に圧死したのだった。

柳田國男は戦前から戦後にかけて、伝説と歴史との境界域をさぐりながら、日本各地に残された伝説の意義や研究の道筋を論考している。
「記録ができたり石の表に刻まれたりすると、それと反するものはすべて誤りになって、文字を識(し)る人がまず忘れていこうとする。そうでなければすべての他に在するものを贋作としなければ、なり立たぬ主張を強調することになるのである。かつて豊富を極めた村々の伝説は、この前後を顧みない歴史化のために、おいおいに痩せて行こうとする」(柳田國男「伝説」)。「文字禍」で老博士が恐れたのは、豊穣な歴史をたかだか文字に写しとって良しとする、まさにこうした事態であっただろう。
柳田は、最も大切なのは、遠い先祖の代から土地ごとに語り伝え信じ切っていた故事が、本来はいかなる種類の真実を保存していたのであったかを見出すことだと主張する。そのためには、史実ではないと伝説を敬遠するのではなく、できるだけたくさんの伝説を集めることが重要であり、これほど多量に長きにわたって伝説が伝えられてきたことが「日本文化の展開の上において、どれほどの意義をもつか」、と問う(「伝説とその蒐集」)。

グリム童話の「シンデレラ」の原型は、世界各地の民間伝承にもある。同様に柳田の「伝説」には、日本各地で変奏されて伝わる「金の斧と鉄の斧」の説話が取り上げられている。ある木樵(きこり)が山仕事で誤って斧を谷川の淵に落としてしまい、仙人が出てくるあの話だ。これはお前のものかと、仙人は金の斧、そして銀の斧を差し出す。いいえ私のは鉄の斧ですと言うと正直者だと誉められ、木樵は三つの斧全部をもらい喜びいさんで家路についた。これを聞いた強欲な隣人は、淵で仙人を呼び出すことに成功すると、三つとも自分のものだと言うが、三つとも返してもらえなかった。
先述した文化人類学者川田順造の『口頭伝承論』には、ウサギが沼のほとりで木を伐っていて斧を落としてしまうという、西アフリカのオートボルタ(現・ブルキナファソ)のモシ族の伝承が出てくる。ウサギが沼に斧を探すと代わりに土鍋が見つかり、その鍋がいろいろな食べ物を恵んでくれる。これを聞きつけたハイエナがわざと斧を落とすと鍋ではなく棒切れが見つかり、棒はいきなりハイエナを打ちのめした。

『北海道の民間説話〈生成〉の研究』、『民話創造ノート』(阿部敏夫)

現代に生まれる北海道の民話

人類が地球規模で深く共有している伝説の原型がある一方で、その土地が語り継いできた小さく多様な言い伝えがある。それらもまた同じ主題を持っていても、時代や語り手によって話にはさまざまなバリエーションを生む。柳田の「伝説」には、「つまりは伝説は活きているがゆえに、成長しないではいられなかったのである」、という一文がある。
ここで思うのは、語り継がれる話の質と量が土地の豊かさを生み出す基盤になるのではないかということだ。土地の豊かさのものさしは、経済指標ばかりでなく、そこがどれほど多様に語られ記されてきたかが鍵をにぎるのだ。

伝説を辞書で定義すれば、「かつてそれが本当に起こったと信じられている言い伝え」、などとなるが、庶民のあいだで伝承された話、つまり民話ではそこに口承文芸の要素も加わり、記録と記憶の境界はさらに豊かさを増していく。

あらためて注目したいのが、北海道の民話研究だ。北海道への移住者たちの生活史を民間説話の切り口から研究してきた阿部敏夫さん(北星学園大学文学部元教授)の主著に、『北海道の民間説話〈生成〉の研究』がある。
阿部さんは、北海道の民話を先住民族アイヌのそれと、入植した和人たちが持ち込み、変容を重ねながら定着していった開拓民話に大別した上で(両者は当然交わりもする)、伝説やことわざ、俗信、世間話といった幅広い素材にも目を配りながら、1980年代から本格的な民話採訪を続けてきた。必ず現地に赴いて採集するから「採訪」だ。この主著では、厳しい風土に挑んだ開拓の日々に新しく生まれていった民話群にも強い光が当たっている。その代表的な分野が、産炭地の民間説話だ。
ひとつの章を構成している「産炭地 夕張・赤平の民間説話」では、例えばふだんはなまくらだが緊急事態には大きな働きをやってのける「なまくら坑夫」の話や、悲惨な事故にまつわる信心深い風習、たくましい「おんな坑夫」の挿話など、自治体史や観光ガイドでは触れられない興味深い話がつづく。そして、事故をめぐる採話の記述や、いかにも感傷的なテレビの報道姿勢についての、当事者からの激しい怒りを受けとめる一節がある。そこにあるのは、民話が生まれる場所で起こる齟齬や生々しい現実だ。阿部さんは民話が誕生して語り継がれながら変容していくプロセスを「生成」と捉え、市井の人々の生き方に分け入ることで地域史の断面をあざやかにスケッチしてきた。

『北海道の民間説話〈生成〉の研究』の終章に、北海道史研究の第一人者であった高倉新一郎(北海道大学名誉教授)が戦中(1942年)に書いたエッセイが引かれている。
そこで高倉は、滋賀県から明治30年代に十勝に渡った両親が生涯郷里を愛し続けたのに対して、帯広で生まれた自分は、新開地として急速に変化を続けた、幼時の記憶とまったく重ならない帯広を誇るべき郷土とは思えず、「私は理論上の故郷はあつても、両親の持つた様な故郷は持たないのである。(中略)民族が発展しつつある今日、同じ想ひの人は益々増加するだろう。是をどうするかは故に又、私だけの問題ではないのである」、と述懐する。
これを読んですぐ思い浮かんだのが、文芸批評家小林秀雄が戦前に綴った、「故郷を失った文学」という短い論考だった。そこで小林は、自分は東京生まれだが江戸っ子ではなく、自分の生活には母親の世代が持っていた、しっかりと地に足をつけた人間の具体性がないと省みる。その一方で小林は、自分たちはそうした代償を払って、西洋文学の伝統的性格を歪曲する事なく理解しはじめた、と書いている。高倉や小林に共通しているのは、急激な変化に直面した人間がとる思考なのだろう。

阿部さんもまた、高倉の述懐を受けて自分たちが取り組むべき針路を見すえると書き、先に触れた、空知の炭鉱史に現在の観光学の枠組でアプローチしている鈴木里奈さんも、阿部さんの研究の針路を共有しているのではないかと思う。それはまた、僕自身や北海道マガジンカイが持つ白地図でもある。
記録と記憶の境界をさまざまな手法で耕していくことは、「変容」を「生成」と積極的に読み換えていくふるまいにも通じている。産業遺産をとらえていくまなざしも、そこから強度を増していくにちがいない。