北海道の民俗芸能について

天狗の火渡り(古平町/撮影:伊藤留美子)

北海道の民俗芸能にはいくつかの系譜を見ることができる。大きくはアイヌの人々による「固有の芸能」と松前藩時代のものを含めた和人による「移植の芸能」だ。和人によるものでも、母村-移住村との単系的な移植の芸能ばかりではなく、分布に地域的な共通性が見いだせるものや集落の歴史が反映されているものなど多様な特性を持っている。
森雅人・札幌大谷大学 社会学部 地域社会学科 教授 -text

和人の民俗芸能

民俗芸能は、すこぶる郷土色が強いことから郷土芸能とも呼ばれる。それをあえて民俗芸能と呼ぶのは、祭りの場で周期的に行われ、地域社会の人々によって受け継がれてきた芸能だからである。その意味で舞台や座敷を中心に行われ、高度な技芸内容を育んできた歌舞伎や能楽等の伝統芸能とは一線を画すのではあるが、これらを本流として舞台芸術の様式や技法を学んで、それを民俗として発達させた地歌舞伎(地芝居)もまた民俗芸能の形態としてみていく必要がある。
北海道の民俗芸能は歴史的にみて、アイヌの人々による「固有の芸能」と松前藩時代のものを含めた和人による「移植の芸能」がある(註1)。本稿は北海道における和人の民俗芸能について紹介するものだが、民俗芸能は伝承母体である地域社会の風土性や相互交流とも深く関わりながら発展してきたから、北海道の和人の民俗芸能は母村-移住村との単系的な移植の芸能ばかりではない。分布に地域的な共通性が見いだせるものや集落の歴史が反映されているものなどさまざまな特性を持っている。

民俗芸能の文化圏

歴史的にみれば北海道の和人の民俗芸能は近世以降に成立したものであり、本州府県に比べて新しいものの、「松前神楽」のように文献によって由緒を語れる例は多くない。この神楽について福山藩(松前藩)の史料を集大成した『福山秘府』には、延宝2(1674)年に藩の公式行事として執り行ったと記されている(註2)。松前神楽はもともと道南の神職によって伝承されてきたものだが、今日では道南のみならず日本海岸を北上して留萌地方のまつりでも行われている。このような分布上の特徴がみられるのは、漁業資源を求めて移り住んだ人々の大漁祈願や海上安全などの祈りと結びついていたからであろう。
道南の江差町に伝わる「江差五勝手鹿子舞」の由来譚にも地域性が表れていて、鹿子舞は松前藩に雇われた南部津軽の杣夫たちによって伝承されたものと言われている。西アジアから中国を経由して日本に伝わったとされる、ライオンの姿をしたいわゆる渡来系の獅子舞ではなく、我が国固有の鹿子舞が北海道にまで普及しているのである。昭和40(1965)年に厚沢部町教育委員会が作成した『“あっさぶ”の鹿子舞(通称ししこ踊り』(註3)によると、厚沢部川流域では松前神楽の成立期と同じ延宝年間(1673~80)にはすでに鹿子舞が行われ、流域の複数の集落で下鹿子(鹿子をわける行為)という交流を通して宝暦年間(1751~63)にはお盆の行事として地域に定着したとみなしている。松前神楽が漁業という生産活動を通して道南・日本海沿岸地域の交流の歴史を反映した文化圏を形成したように、鹿子舞もまた桧山開拓や林業といった共通の地域性により津軽海峡を隔てた南部津軽地方との間で鹿子文化圏を成立させていたのではないだろうか(註4)
大名行列を象徴する「奴振り」(奴行列)も、北海道は27例確認されており、香川県の62例、大分県の45例、熊本県の33例に次いで4位である(註5)。特に八雲町の熊石地区(旧熊石町)の「相沼奴」のような道南に伝わる奴振りは、江戸時代には風流として祭りの行列に取り入れられていたようである。奴振りという民俗芸能の場合、道南・日本海沿岸地域という限られた範囲にとどまらず、時代が下るにつれて後志管内の自治体や遠くは美幌町や興部町にまで伝播しているのが特徴である。ニセコ町の赤坂奴(奴振り)の例では、小樽市の住吉神社で赤坂奴を経験した者が狩太村(現ニセコ町)へ移住したのを機に、この芸能が神輿渡御の先ぶれ役として紹介され、青少年が担うべき行事として選択的に採用されている。

熊石の相沼奴(八雲町/古い写真を転写)

獅子舞の普及

先述の鹿子舞が青森県に由来し、道南という限られた地域に分布していたのに対し、北海道全域に広く普及しているのが富山県を由来地とする獅子舞で、北海道の「ししまい」のおよそ半数近くを占めている。富山県からの北海道移住は明治以降に増加しており、昭和に入ってからも母村‐移住村との関係が続いているケースもあって、『富山県の獅子舞』(註6)には「この村(富山市水橋町辻ヶ堂)から教えたのは、北海道の千歳市であり、昭和初年(1926)と昭和52年(1977)6月の二度にわたっている。当村出身者が先方に在住している関係からのようである」と記されている。
北海道に富山県を源流地とする獅子舞が多いのは、富山県で獅子舞が隆盛だった時期とも関係している(註7)。前掲の『富山県の獅子舞』は富山県側で獅子を興した時代について記載しており、圧倒的に江戸後期から明治初期に開始したという獅子舞が多い。この頃は、安政5(1858)年の打ちこわし、明治2(1869)年のばんどり騒動、明治8(1875)年に実施された地租改正、中越鉄道の開業による農家副業の喪失など、農家の生活は困窮を極めていた。『美唄の獅子笛』(註8)には米騒動によって衰退した村を立て直すために獅子舞を興したとの記述があり、獅子舞には娯楽や余興以外の村おこしの意味もあった。
富山県の獅子舞は、呉羽山を境に呉西には百足獅子、呉東には二人立獅子が分布しており、北海道にもこれらの獅子舞が伝わっている。前者の例が札幌市無形文化財に指定されている「丘珠獅子舞」である。富山県東砺波郡福野町安居を源流地とする百足獅子で、その担い手を若連中と呼ぶことでも共通しており、親から子への伝承パターンもみられる。母村‐移住村の関係を辿ることができる獅子舞に、鳥取県の因幡地方から伝承された麒麟獅子がある。神前で舞い出す二人立ちの獅子舞で、獅子、猩々、囃子方で構成しているのが特徴である。明治期に鳥取県池田藩士による団結移住が行われた釧路市鳥取では、昭和15(1940)年に郷里に縁のある人々が鳥取神社に麒麟獅子舞を奉納し、郷里から舞人を招聘するなど直接的な交流を行っている。利尻町にも麒麟獅子舞が伝わっていて、大正期に同町長浜神社の祭礼で麒麟獅子舞を奉納したと伝わっている。敗戦による継承者不足や鰊漁から沿岸漁業への転換などにより一時期途絶えたものの、『利尻町史』編纂事業をきっかけに学芸員らの働きかけによって復活している。

利尻麒麟獅子舞(写真:松井久幸)

このように母村と移住村とでほぼ同系の獅子舞が行われているケースもあるが、妹背牛町では富山県下新川獅子の特徴である猩々の舞の特徴は残しつつ、二人立獅子が百足獅子に変化しているケースもあって、地域社会の文化的特性、特に地域社会における出身地の構成等が獅子舞の内容にも影響を与えており、北海道で独自の発展を遂げているのである。そのような例としては、他に富山県の獅子舞と淡路島の獅子舞が融合した北竜町の真竜獅子舞がある。一方、完全に創作された獅子舞は少ないが、大正14(1925)年に苫前町で発生した獣害「三毛別羆事件」を題材とした「くま獅子」は、地域社会の想像力を示したユニークな例である。

民俗芸能の活用

国が平成29(2017)年6月に「文化芸術基本法」を施行し、地域の宝である文化財を保存するだけではなく、観光やまちづくり、福祉、教育、産業などの幅広い分野を取り込んでいくことを鮮明に打ち出した。令和2(2020)年8月に策定された「北海道文化財保存活用大綱」も、かなり活用の方向に舵を切っている。平成31(2019)年3月には姥神大神宮渡御祭(江差町)が指定無形民俗文化財に登録され、令和2(2020)年5月には金刀比羅神社例大祭(根室市)が続いたことも、祭りを地域の資源として活用しようとする自治体にとっては朗報であった。
しかし、人口減少によって疲弊した地方では、祭りを続けていくこと自体容易ではない。一口に活用といっても、地域住民はもとより自治体や地元企業などの理解と協力がなければ、祭りを開催することはできない。加えて3年続いたコロナ禍は、容赦なく祭りを中断させてきた。そのような状況下で、古平町では伝統ある琴平神社の祭りの開催に踏み切った。猿田彦(天狗)の「火渡り」の神事として知られるこの祭りには毎年大勢の観光客や写真愛好家が訪れている。火でケガレを祓うこの神事は、道内では積丹町の美国神社の祭りでも行われている。漁業地域の潔斎観を示す貴重な行事である。
猿田彦は天孫降臨の案内役をしたとされていることから、道開きの神として神輿の先頭を切って進む。巡行の際に猿田彦の前を横切ったり、追い越したり、洗濯物が干してあるのが見えたり、二階の窓から見下ろしたりする行為は禁止されており、もしそうしたことが行われれば猿田彦は動かなくなり行列が止まってしまう。こうした禁忌は江差の姥神大神宮渡御祭でも伝えられているが(註9)、古平町の場合は不敬な行為を見つけたときの猿田彦の立ち回りに鬼気迫るものがあり、否が応でも観衆を祭りに惹きつける。観衆もまた猿田彦に導かれるように火渡り会場へと向かう。太鼓と笛の音が響き渡る中で火渡りが始まり、猿田彦が燃え盛る炎をかき分けるように潜り抜ける。獅子舞や神輿、楽人による大榊も後に続き、大歓声の中で祭りはクライマックスを迎える。
古平町の琴平神社のお祭りは、町外や海外からの観光客をも魅了する神事であるが、祭りの活用には担い手にとっては地元を理解するための学習の場でもある。札幌市北区篠路および新琴似に伝わる地歌舞伎(農村歌舞伎)は、その可能性を持った民俗芸能である。両者は近接した地域でありながら、地歌舞伎の継承には大きな違いがある。篠路歌舞伎は担い手である篠路中央保育園児と篠路歌舞伎保存会による資料収集や広報活動が、一見すると乖離しているように見えて農村コミュニティとして発展してきたという歴史観を共有している。一方、新琴似の場合はこれまで屯田兵村としての歴史が強調されてきたが、こと地歌舞伎の伝承に関しては担い手である新琴似中学校による総合学習における歌舞伎の位置づけと、それを支えている新琴似歌舞伎伝承会の活動をベースにしながら地域における保存価値の共有を探求している。地歌舞伎は観光のみならず地域学習としての活用可能性を持っている。


1)西角井正大『民俗芸能』(株)ぎょうせい、平成4年3月、266-268頁。
2)森雅人『まつりと民俗芸能』(北の生活文庫9)北海道、平成7年3月、131-146頁。
3)復刻版、2021年2月。
4)北海道の民俗芸能一覧(「北海道民俗芸能緊急調査」H7~9のフォローアップ集計)、平成21年3月によれば、青森県を由来地とする鹿子舞が7件、富山県を由来地とする獅子舞が43件である。
5)福持昌之「祭礼行列に伴う「奴振り」の分布状況‐日本奴行列研究会の収集資料の成果も加えて-」大阪観光大学観光学研究所年報『観光研究論集』第15号、平成28年11月、17‐24頁
6)富山県教育委員会、昭和54年。
7)南砺市HPには、美唄市峰延町に伝わる獅子舞は明治時代に旧高瀬村字森清から峰延町に移住した宮浦喜太郎氏森清から道具を取り寄せ、地域住民に広めたものであると紹介している。さらに、峰延に伝わった獅子舞は、一時期後継者が絶えて休眠状態になっていたものの、夏祭りで獅子舞を再現したことがきっかけになって、峰延獅子舞復活プロジェクトが立ち上がり、後継者育成やシンポジウムが行われ、ルーツの地である南砺市の訪問も実現している。
8)岩倉節郎、昭和58年。
9)北海道みんぞく文化研究会『北海道を探る 江差特集その1』1992年、388‐407頁。

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