今年は寺山修司の没後40年。寺山が1967(昭和42)年に制作したテレビドキュメンタリーと現代を対比する映画『日の丸~寺山修司40年目の挑発~』が公開されたり、85歳になった寺山がアイドルグループをプロデュースする奇想天外な長編小説『TRY48』(中森明夫著)が発刊されたりと、いまだに話題に事欠かない。もし寺山が生きていたら…、と妄想してしまう人は少なくないのかもしれない。
札幌には世に出る前の、若き日の寺山を知る人がいる。山形健次郎さん、86歳。寺山の1学年下で、高校時代から俳句仲間として親しく交流したという。二人の接点を知りたくて、山形さんが5年前に開設した「さっぽろ寺山修司資料館」を訪ねた。
札幌市の西部、発寒川にほど近い場所に建つ3階建てのオフィスビル。ここに山形さんが経営する「サンケン環境株式会社」の事務所があり、「さっぽろ寺山修司資料館」はその1階に併設されている。
寺山の著作や彼にまつまる評論、寺山が主宰した劇団「天井桟敷」の公演ポスター、映画ビデオやCDなどがずらりと並ぶが、なかでも目を見張るのは、若き寺山が山形さんに宛てた直筆の手紙の数々だ。
山形さんは1936(昭和11)年6月15日生まれ。寺山は前年の12月10日生まれ(出生届が遅れたため戸籍上は昭和11年1月10日生まれ)。つまり、半年しか離れていない同世代。北海道滝川市に生まれ育った山形さんと、青森県出身の寺山は、いつ、どのように知り合ったのだろうか。
「私が滝川東高校(現在の滝川高校)2年のとき、学校宛てに寺山から手紙が届いたんです。当時『蛍雪時代』という受験雑誌に俳句投稿欄があって、私も寺山も入選者の常連でしたから、お互いの名前は知っていました。高校名も載っていたので、学校へ手紙を送ってよこしたのでしょう」
俳句の投稿欄で特選になると14金の万年筆がもらえたため、山形さんが万年筆目当てに投句すると、寺山を差し置き、山形さんの句が一席に選ばれることも多かったという。
「彼より入選回数が多かったから、目をつけられたんでしょう」と、ハハハと愉快そうに笑う山形さん。手紙は、俳句の研究雑誌をつくるから仲間に加わらないか、という内容だった。
書面には高校3年だった寺山の自己紹介がある。
「僕の自己紹介は今の所、二義的なものだと思います。僕の俳句観と作品がそれをしてくれるでしょうから。しかし一応、ガイネン的に云うならば十七才。(中略)早大を受験します。はじめ東大でしたが、文学(poemと俳句)になやまされてついにこれはあきらめました」
きっと山形さんだけではなく、全国の気になる高校生に呼びかけたのだろう。1954(昭和29)年、10代の俳句研究誌「牧羊神」は寺山の大学入学の直前に創刊された。資料館にはガリ版刷りの「牧羊神」が終巻の12号まで展示されている。
寺山が早稲田に入学してからも山形さんとの文通は続いた。毎週のように届いた時期もあるという。資料館には山形さんの修学旅行の日程を知らせてほしいと乞う寺山の手紙も展示されており、実際に修学旅行先にわざわざ会いに来てくれたそうだ。
山形さん自身も俳句熱が高まり、高校卒業の記念に句集『銅像』を自費出版。跋文(本の後書き)を寺山に依頼したところ、「火を創る少年 山形健次郎へ」と題する素晴らしい賛辞を贈ってくれた。
「彼は——いってみれば火を創る少年である。そして数少ない私の親友の一人であると同時に『牧羊神』の中でも第一線のアバンギャルドであり、俳壇の怖ろしき子供(アンファン・テリブル)でもある」
このとき寺山は18歳で「短歌研究」新人賞を受賞したものの、まだ一冊の著作もないころ。「私が生意気に見えたろうし、刺激にもなったのではないか」と山形さんは振り返る。
「こっちに出てこい」という寺山の誘いもあり、高校卒業後は中央大学法学部に入学。寺山の入院をはさみつつ、彼の下宿に入り浸るような濃密な付き合いが始まった。
寺山の生涯のパートナーとなる九條映子にも「よくメシを食わせてもらった」という。1962(昭和37)年の寺山と九條の結婚の際は、警備隊長の役目も担った。
「寺山の母親が結婚に反対して阻止しようとしていたからね。邪魔が入る可能性があったわけ。披露宴は無事に終わったけど、その晩、自宅に火をつけられたんですよ」
山形さんの口からは仰天のエピソードばかりが飛び出す。
寺山は大学を中退後、ラジオドラマや戯曲、映画のシナリオを書いていたが、1967(昭和42)年には横尾忠則、東由多加らと演劇実験室「天井桟敷」を旗揚げ。海外で高く評価され、どんどん有名になっていく。
一方、山形さんは1963(昭和38)年、26歳で北海道にUターン。札幌地方裁判所の書記官として働く道を選んだ。
「文学青年がその気になって、もの書きになろうとしたものの、結局10年で脱走して、役人になったわけですよ」と山形さん。
「俳句はやめてしまったのですか」と不躾な質問をすると、山形さんはテーブルをポンと叩きながら、「だって俳句じゃメシは食えないんだよ」と笑顔で返したが、若い心にどのような葛藤があったのか問うのは難しい。
山形さんは役所に10年間、勤めたのち、東京への転勤を断って退職。36歳で司法・行政書士事務所を開設。その後、ペンションを開いたり、農園経営に関わったり、不老不死の水を研究したり、事業家としての道を歩み始めた。
寺山が肝硬変と腹膜炎のため敗血症を併発して亡くなったのは1983(昭和58)年5月4日。山形さんは同年1月に母親を亡くしており、続く寺山の死に衝撃を受け、しばらく自失の日々を送ったという。
「寺山も私も母子家庭で、父なし子なんですよ。戦争で亡くなった寺山の父も、早世した私の父も警察関係者で、そういう共通点もあったのかな、今思えばね。苦労して育ててくれたおふくろに親孝行ができなかったこと、寺山に報いる機会を失ったことで、こんなことをしていてはダメだと。少し本気で生き直そうと思ったわけです」
そうして山形さんは寺山との過去を封印。極秘にして誰にも語らず事業に邁進し、四つの会社の代表と、七つの会社の監査役を務めるまでになった。
そんな山形さんが寺山との交流を公言したのは2002(平成14)年。北海道立文学館の「寺山修司展~テラヤマ・ワールド きらめく闇の宇宙~」がきっかけだった。展覧会を監修したのは寺山と親交のあった文化人類学者の山口昌男。当時、札幌大学の学長を務めており、文学館のほか札幌大学、映画館や劇場なども連動して、同時多発的に寺山作品の演劇や朗読、上映会、ライブなどの催しが開催された。
「この機会に見てもらうのもいいだろうと、私的な寺山修司回顧展を勝手に同時開催してみたんです」
いつもは絵画を展示している自社1階の企画展画廊に、寺山からの書簡を並べて公開。観覧に来た山口昌男を驚愕させた。
「山口先生が札幌にいなかったら、誰にもお見せしなかったかもしれませんね。展示の反響はすごく大きくて、翌年には世田谷文学館の展覧会『帰ってきた寺山修司』へ書簡の貸し出し依頼があり、寺山について話す機会も増えました」
それにしても高校時代の手紙をよく保管していたものだ。
「たまたまです。句集を出したとき、一冊70円の本を300冊刷って好きな俳人に進呈したら、批評を返してくれた人がいて、金子兜太などの手紙があった。俳句はやめてもこれは人生の記念だからと、残しておいたなかに寺山の手紙の一部もあったんです」
2019(令和元)年には社屋1階のギャラリ−を改装し「さっぽろ寺山修司資料館」として常設展示をスタートした。
会社の就業時間内、平日のみ17時までの開館だが、これまで劇団四季や天井桟敷の関係者をはじめ、多くの寺山ファンが全国各地から足を運んでくれた。毎週のように通ってくる地元の高校生もいたという。いまは今後の継続に向けて資料館の財団法人化を検討している最中だ。
山形さんにはまだまだ聞きたいことが山ほどある。無名時代の寺山は将来の夢をどのように語っていたのか、高校時代に呼びかけた俳句の仲間との交流はその後、どうなったのか。
「話せば長くなるからね、いずれ書こうと思ってる」と山形さん。出版社と本にまとめる約束もしているという。
「死ぬときに書こうと思ってね、残してある。忙しくて書く暇がない、というか、まだ書きたくない。父の亡くなったこととかね、そういう苦しいことを振り返らなきゃならないし、やっぱり気が重いんですよ」
いやいやいや、今すぐにでも書き始めてほしい。山形さんの記憶の中だけにいる、若き日の寺山修司の姿をどうしても知りたく思うのは、きっと私だけではないだろう。
さっぽろ寺山修司資料館
北海道札幌市西区山の手7条6丁目4−25
開館時間:平日13〜17時
休館日:土・日・祝日
TEL:011−614−2918
入場無料
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