篠原家の初代・茂次郎が徳島から移り住み、牛舎川流域で藍の栽培を始めたのは1895(明治28)年頃。最盛期に所有していた土地は160~180ヘクタール。北黄金町の自宅から現在の「道の駅だて歴史の杜・黎明観」がある辺りまで、自分の土地だけで行けるほどの地主だった。やがてインド藍やドイツの人造藍の輸入などに押されて国産藍の価格は下落し、全国的に藍の生産は衰退していった。大きな打撃となったのは、戦後まもなくGHQの最高司令官マッカーサーの指令により行われた農地開放だ。広大な篠原家の農地は小作人へと譲渡された。
「うちの場合は、カボチャ1個で土地を全部手放すことになったらしい。でも、農地開放は正解だったと思いますよ。あれで日本は隆盛していったんだから」と一寿さん。初代から藍を生産してきた篠原家だったが、藍の将来に見切りをつけ、8年ほど酪農家として牛を飼育していた時代がある。「近くの高橋牧場に助けてもらったこともある。総理大臣を務めた高橋是清が創業した牧場で、競走馬を生産していたの。うちで牧草を作り、軽種馬協会に納めていたこともあった」と、藍から離れていた時代を振り返る。
たった一人、藍で繁栄していた時代が忘れられずに、種を守り続けたのが祖母のかめさんだ。「茂や、藍は必ず復活するから、わしが種だけは作っておく」と息子に言い聞かせ、種用の藍を毎年栽培していたという。「昔は、この家から稀府駅まで、年貢米 (小作料)を納めるためにずっと馬車が並んだという話ですから。婆さんにとっては未練もあるし、大正~昭和初期までは、良い時代だったと思います」
あるとき、道外の藍染め関係者から「篠原さんが生産しない間に、蒅がかなり値上がりしてしまった。このままだと日本から藍屋が消えてしまう。何とかしてくれ」と泣きつかれた。篠原家が藍農家として再開したのは1980(昭和55)年。「一度、大失敗しましたが、それでも北海道の藍を絶やしてはならないと、あまり色が出ないような藍も半額で買ってくれた」。今では徳島大学が認めるほどの藍の品質を誇っている。
現在、篠原家の藍畑は蒅用が約3ヘクタール、翌年の種用が約2ヘクタール。4月上旬にポットに種をまき、15cmほどの苗になるまでビニールハウスで栽培。5月下旬~6月上旬から苗を畑に移植する。50~70cmほどに成長したら、花が付かないうちに収穫。通常、8月に一番刈り、9月末~10月中旬に二番刈りを行う。天気次第だが、畑にそのまま4日ほど置き、自然乾燥させた葉を伊達では4カ月かけて熟成させて蒅を生産していく。蒅が完成するのは2月末、冷めてから脱穀機にかけて出荷できるのは3~4月。
畑に植えられた藍の苗を間近で見ると、葉がバジルに似ている。「茎が青いのは白い花を咲かせます。初代が徳島から持ってきたのは、この白花の藍。これより葉が大きく、収穫量も多い赤花の藍も植えてみたけれど、種がなかなか採れないの。北海道はどうしても霜が降りるから。いろいろ試しているうちに、いつの間にか混合されてしまった」と笑う。
藍は肥料を食う作物で、徳島では江戸時代から吉野川の氾濫による肥沃な土壌で栽培されていた。当時は近海で取れるイワシを乾燥させ肥料として入れていたが、不漁により道産の鰊粕を求めるようになった。農民たちにとって遠方からの肥料は高価過ぎたのだろう。明治時代、徳島県人は広大な大地と安価な鰊粕を求めて北海道に移り住むようになったという。
一寿さんは「隣に牧場がありますから、うちの畑には牛糞の堆肥をたっぷり入れます。だから、化学肥料では出ないような濃い藍色が出せます」と胸を張る。藍の苗を商品として販売したことはないのだろうか。「以前、札幌の花屋さんで販売したことはあります。その頃は7、8ヘクタール作っていましたから。ものすごく売れて、販売用の苗を栽培するのが追い付かなくなり止めました」。ところで、藍は食べられるのだろうか。「食べられますよ。徳島では、ある程度大きくなった頃の新芽を摘んでお浸しにして食べているとか」。伊達の新たな特産品にならないだろうかと、勝手に捕らぬ狸の皮算用をしてみる。
苗の栽培から蒅を生産する工程で、最も神経を使うのは藍を発酵させる作業だ。葉の部分を発酵させたものが蒅(染料)となり、発酵を十分にしなければ、濃い藍色に染まらないからだ。積み上げた藍の葉に水をかけ、「着物」と呼ばれる厚いネット状のテント地を被せると、発酵して湯気が上がってくる。60℃以内に保つように、藍の山の高低を出しながら水をかけて温度調節をする。つまり、今日は温度が低いと感じたら、スコップで藍を積み上げて水をかけるのだ。冬の作業としては大変だが、家族4人でこなしている。「今、この作業ができるのは、日本でも4、5軒しかないんじゃないかな。農家であれば、藍の栽培は誰でもできる。でも、蒅の生産は限られているから」
蒅が「藍玉」と呼ばれるのは、かつては石臼で蒅を餅状につき、玉にして仕上げていたから。篠原家では運搬しやすいように長い棒状にまとめて俵に詰めていたという。現在は、染料として使いやすいように、十分に発酵した蒅を脱穀機で細かく砕き、30kg入りの袋に詰めて出荷している。一寿さんにとって一番満足できる瞬間は「蒅が出来上がる寸前、手でつかんで匂いを嗅ぐと、蜂蜜のような匂いがするわけさ。甘~い香りが何ともいえない。その時が最高だね。いや~、今年はこれでうまくいったと思える」という。
藍は捨てるところがない。発酵した葉は染料となる蒅になり、残った茎は染料としての価値はまったくないが、化学染料を発酵させる材料としては役に立つ。「うちは4カ月寝かせて発酵しているので、染まりがよくなると評判なんですよ」。たとえば、柔道着のブルーは、ほとんどが化学染料のインディゴで染められている。本藍で染めた柔道着もあるが、100万円以上の高価なものになる。一般的な柔道着は、その十分の一で作れる化学染料が使われるのだ。
蒅の段階で良し悪しはそれほど分からないが、お湯を足して藍を建てた時に、どんな風に色が湧き上がってくるのか、液の建ち方の速さでも判断できるという。代々、蒅の生産まではやっていたが、染める知識や技術を身に付けたのは一寿さんの代になってからだ。「どうしても生産した蒅がどのくらいの品質なのか知りたくて、内地の染屋に送ったんだけど、みんな「まぁまぁ、だね」しか言ってくれない。僕は最後まで責任をもって、大丈夫だと思える蒅を作りたかったので、6年間、埼玉県羽生市の藍染め工房で修業しました。発酵の仕方、色の出し方、染めの基本はそこですべて学んだ」という。
羽生市といえば、江戸時代後半から続く藍染めのまちだ。藍農家が農閑期を利用して家族の衣服を作ったのが始まりとされ、最盛期には武州(羽生、加須、行田)の一大産業となった。藍染めの職人を紺屋職人と呼び、当時は200軒以上の紺屋があったという。現在も「武州正藍染」として、全国や世界に向けて発信されている。
藍を建てるとは、藍の染液を作ること。蒅にアルカリ性の液を加えて作るのだが、灰汁、酒、ふすまなどを加えバクテリアの力で発酵させる伝統的な「天然灰汁発酵建て」と、還元剤としてハイドロサルファイトなどの化学薬品を使う「化学建て」の方法がある。藍染め体験や趣味で染める場合は、化学建てが一般的で、篠原さんの工房では、廃材である浴槽を再利用して藍を建てている。さっそく、持参した麻布を染めさせてもらうことにした。
藍染めの場合、麻はすごく染まりやすい。染める前に布を水洗いし、水気を切って染液に入れ、液から布が出ないように、布が重ならないように広げて、空気に触れないように揺らす。染液の適温は20~25℃前後、常温の水の中に手を入れている感じだ。北海道の場合、冬は凍れるのでボイラーのお湯を利用して、浴槽全体を温めるという。3、4分経った頃に布を引き上げ、絞ると美しいグリーンに染まっている。「いまグリーンだけど、だんだん深いグリーンになって、空気に触れると青くなり、水で洗うときれいな濃紺になっていきます。自分の好みの濃さになるまで、染める、空気に触れさせる、の作業を数回繰り返します」
1983(昭和58)年、北海道で掲げられた「一村一品運動」により、一寿さんは伊達の藍染めを広めるため、道内各地のイベントに駆り出された。その際、1500人ほどの生徒さんができ、今もつながりがあるのは800~1000人ほど。現在は、一般の藍染め体験は「だて歴史文化ミュージアムの体験学習館」で行ってもらうが、年に2回ほど旭川市と札幌市で開かれる「伊達藍で染める会」で指導している。「毎年、染めた布の色を比べながら、藍の状態を確認しています。この仕事を生きがいと感じるのは、自分が作った藍に自信が持てるから。今、札幌のジーンズショップがうちの藍を使って、新しい商品開発にチャレンジしていて、熱心な従業員たちが工房に通っています。そうやって若い人たちにも藍の価値を伝えられるのは、やりがいがありますよ」と、満面の笑みを浮かべた。
藍染の里 藍篠原
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