箱館奉行所をめぐる歴史の入り口。

旧箱館奉行所棟札

写真提供/市立函館博物館

写真提供/市立函館博物館

千島列島やサハリンからのロシアの勢力南下が明らかになった18世紀末から19世紀初頭。その脅威に突き動かされた幕府は、松前藩に代わって蝦夷地を自ら直轄することにした。松前藩は知行高を減らされて陸奥の梁川(福島県)に移封されてしまう。
幕府の重要な出先機関として1803(享和3)年に置かれたのが、箱館奉行所(箱館御役所)だ。場所は現在の元町公園あたり。その建物は1807(文化4)年に焼失して、3年後に再建された。

この棟札は、その再建された箱館奉行所のもの。棟札とは棟上げのときに施主や神様の名前、年月などを墨書して棟木(むなぎ)に打ちつける札。写真ではほとんど見えないが、「文化七庚午年四月二十一日奉納御役所棟札」とあり、開港後に箱館奉行に任命される村垣範正の祖父で当時の箱館奉行だった村垣定行、そして棟梁市兵衛・市左衛門などの名がある。

幕府の直轄は、1821(文政4)年にいったん終わる。ヨーロッパではナポレオン戦争(1796-1815)後の混乱で極東への感心が減ってロシアの脅威が薄れたことや、蠣崎波響らが奮闘した松前藩の復領運動のたまものだった。奉行所は建物だけが残された。

箱館奉行所が幕府の出先機関として再開されるのは、前回から半世紀ほど経った1854(嘉永7)年。英国が清にしかけた阿片戦争(1840〜42年)やペリー来航などによってはじまった東アジアの激動に対応するために、幕府がまた蝦夷地を上地(あげち)したことによる。同年、まず箱館の5〜6里四方が幕府直轄地となり、翌55年には松前藩の領地をのぞく蝦夷地全体が直轄地となる。この55年に日米和親条約によって箱館が開港されると、異国船が頻繁に入港して、異人たちも上陸してくる。外国の脅威はより具体的なものとなり、幕府は五稜郭や弁天岬台場の築造を急いだ。

一方で、北方を向いて世界に開かれ、日本の外交政治のフロンティアとなった箱館奉行所には、武田斐三郎に代表される優秀な官吏たちが集まった。武田は、奉行所を舞台に五稜郭や弁天岬台場の築造、諸術調所(しょじゅつしらべしょ)での教育活動など、精力的に仕事をこなしていった。

五稜郭築造にともなって、五稜郭が奉行所本庁舎となったのは1864(元治元)年(元町の旧奉行所は分庁舎となる)。奉行所は、半世紀以上前には函館山のふもとに設けたものの、この時代になると軍艦からの砲撃のリスクを避けるために、内陸に移されたのだった。

五稜郭時代の箱館奉行所は箱館戦争の戦火で破壊され、ほどなくして取り壊された(2010年に一部復元)。しかし元町の旧奉行所の建物は明治20年代前半まで使われた。80年あまりも函館に存在したわけだが、現存する資料はこの棟札のみだ。

谷口雅春-text