波響の笑顔を想像したくなる。

蠣崎波響『復藩祝』

写真提供/市立函館博物館
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1821(文政4)年、陸奧(むつ)に転封(てんぽう)されていた松前藩が松前に復領なった喜びをテーマにした、蠣崎波響の筆によると思われる戯画。

ロシアの勢力南下によって18世紀末、日本列島北方を取り巻く情勢は一気に緊張を高めた。北海道が北東アジア史のフロントに登場する時代だ。老中田沼意次は、近藤重蔵、最上徳内らに蝦夷地から千島列島にまで足を伸ばす北方調査を命じる。
東蝦夷地でアイヌと和人のあいだでクナシリ・メナシの戦い(1789年)が起こると、事態を危惧した幕府は蝦夷地を直轄。箱館奉行を設置して箱館に奉行所を築造した(後に松前に移動)。ロシアの脅威にさらされる蝦夷地をもはや松前藩だけに任せてはおけない、というわけだ。松前藩は知行高を減らされて陸奥の梁川に転封されてしまった(1807年)。

このとき藩のために奮闘したのが、家老であり希代の文人・絵師であった蠣崎波響(1764~1826)。アイヌの有力者12人の連作肖像画で代表作の「夷酋列像」(いしゅうれつぞう)は、クナシリ・メナシの戦いで松前藩側に功のあった人物たちで、波響らはこれを複数セット用意して、江戸や京都で松前藩存続のロビー活動に活用した。

1821年、波響58歳の年、幕府は蝦夷地を松前藩に戻した。以後波響は、作品に「松前波響」と署名するようになる。

この絵では、祝賀の飾りものである蓬莱山を模した島台の中央に、復領にちなんで、もとの鞘(さや)にもどった刀が載っている。松竹梅がそれを飾る。讃は、「御殿様御機嫌よく本の国より帰城あらせ給へけれは千秋万歳賀しく奉るよめる」とはじまる。前段には、「相生(あいおい)の 松前さまに 千代いはふ この嶋䑓(台)のあし三ケ所」。

島台の中央にある黒い箱が何であるのか、そしてそもそもこの戯画がどのような折に描かれたのか、詳しくはわからないという。ともあれ、復領の安堵につつまれて藩の重臣たちが愉悦の時間を楽しみながら、波響が欣然と筆をとったと想像してみたい。そうであれば、松前藩や波響の存在自体が、有為転変に翻弄される人間の営みとして、とてもリアルなものに感じられてくる。

谷口雅春-text