長さ10.3cmのこの土製品には、せりあがった側面に20本ほどの縦線が刻まれている。アイヌ文化期(13世紀~)のイタオマチプ(イタ綴り舟)のように、波よけの板が結びつけられていたのだろうか。底にも、船底を思わせるラインが縦に刻まれている。
約1万1千年前から、朝鮮半島と九州のあいだを北上する対馬暖流が優勢になり、津軽海峡では日本海から太平洋に抜ける暖かい流れが勢いを増していった。気候は温暖になり、海水面も上昇していく。日本海の湿った空気がブナなどを中心とする広葉樹林を育み、そこに縄文文化と呼ばれることになる、狩猟採集を軸にした人々の多様な営みが繰り広げられていった。
青森県の三内丸山に大規模な集落があったころ(約5500年前~4000年前)、津軽海峡をはさんだ北海道側にも人々の盛んな営みがあり、両者には往来があったことがわかっている。共通した様式の土器(円筒土器)や、同質のヒスイ製品などがそれぞれ大量に発掘されているからだ。
時代を大きく下っても、北東北に残るアイヌ語地名は、深い関わりの証だ。この海峡圏の人々は、縄文時代から共通の言語や精神文化をもち、婚姻関係も含むさまざまな関わりがあったのだろう。
縄文時代はいまよりも海面が数メートル高く、海峡の距離が現在よりも長かった。そのころの函館山は、海峡に浮かぶ小島だ。
今日の海峡の最短部は17キロあまりだが、それでも強く複雑な潮流のために横断は容易ではない。しかし、道路を前提とする現代人には考えにくいことだが、そもそも人が移動するには森や山岳におおわれた陸地を進むよりも、川や海を行く方がはるかに合理的だ。季節や潮や天候を読みながら、縄文人たちは海の道を果敢に行き来していたのだった。
ではどんな舟で? 残念ながら木製の道具は、長い年月土中に残存することがとても難しいので、舟の実物は、津軽海峡をはさむ地域からは出土していない。この土製品は、その疑問への大きなヒントだ。
谷口雅春-text