海から知る。函館の風土。

魚類標本

写真提供/市立函館博物館

オオカミウオ

写真提供/市立函館博物館

オオクチイシナギ

イシガレイ

写真提供/市立函館博物館

クロソイ

ハリセンボン

写真提供/市立函館博物館
マダイ
チョウザメ

写真提供/市立函館博物館

開拓使時代(1869-1882年)に製作された函館近海の魚類の剥製(はくせい)標本。「ハリセンボン」「オオクチイシナギ」「イシガレイ」「クロソイ」「オオカミウオ」「マダイ」「チョウザメ」。近代国家へのテイクオフをめざす明治政府にとって、北海道は、石炭や木材、漁業資源などがさながら無尽蔵に眠る島だった。この島の開拓をつかさどる行政機関として、1869(明治2)年、開拓使が東京に設置され、この年まず、すでに十分な都市機能があった函館に出張所が開かれた。札幌に本庁が移されるのは、1871年。それは原生林が広がる扇状地に計画された都市札幌にとって、ゼロからまちづくりがはじまったころだ。

北海道がいったいどんな島で、そこに、「内地」とはちがうどんな自然の営みがあるのか―。はるか時代をさかのぼって先住していたアイヌ民族は別にして、和人の中でそのことを知る者はとても少なかっただろう。
開拓使函館支庁は、「鳥獣虫魚木土石の類」で見慣れないものを見つけたときは採集して支庁に届出ること、と公告した。それらの中から選りすぐって作った剥製が、これらの魚類標本だ。

驚くべきは、明治10年代に作られたとは感じられないほどの状態の良さ。冷涼な北海道ならではの条件と、風通しや虫菌害に気を使った代々の保存・展示によるものだろう。人々がこれらを持ち込み剥製が作られた時代の、植民都市のエネルギーが想像できる。

この時代、欧米の博物学者や自然科学者たちにとっても、科学の目も手も入っていない北海道の自然は好奇の的だった。モノによって世界を映しだし記述しつくそうという博物学のまなざしは、北方圏の入り口に位置する極東のこの島を、未知の宝物のようにとらえていたことだろう。

函館の貿易商・博物学者ブラキストンは、大量の野鳥の剥製標本を作って大英博物館などに送っている。伝説の鳥獣採集家折居彪二郎が研究者の要求に応えて鳥獣採集業の道に入ったのも、函館に来ていた大英博物館の嘱託採集員と知り合ったのがきっかけだった。
東京大学に請われて来日していた動物学者エドワード・モースや、イギリスの地震学・考古学者ジョン・ミルンも、それぞれ函館山のふもとの貝塚を調査した。宝来町のあさり坂は、その史実にちなむ地名だ。

谷口雅春-text

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