函館傑士伝タイトル

函館の各界で活躍する函館人の心には、郷土の大先輩たちが生きている。
函館人が語る函館人の物語から、このまちならではの成り立ちやぶ厚い歴史が聞こえてくる。

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谷口雅春─text 露口啓二─photo

岡田健蔵(おかだ・けんぞう)

1883(明治16)年函館生まれ。1903(明治36)年、洋型蝋燭の製造販売をはじめるが、原料を道産品にすべく研究するうちに文献資料の不足を痛感。図書館を作って産業の発展に貢献しようと志を立てる。1906(明治39)年、私蔵する図書、雑誌、新聞などをもとに、自宅店舗内に図書室を開設。これを源流に、函館の篤志家の支援を集めながら、1928(昭和3)年市立函館図書館が誕生。1930年から没する1944年まで館長を担う。公私のすべてを図書館にささげ、市民と後世のために貴重な郷土資料などをどん欲に収集。函館に日本有数の図書館とその利用者たちを育てた。図書裡(としょり)の号を持つ。

生涯のすべてを図書館にささげた男、岡田健蔵

戊辰戦争の最終局面が繰り広げられた五稜郭に面して、2005年に開館した函館市中央図書館。この図書館の源流には、炎のようなひとりのレジェンドが存在する。その名は、岡田健蔵(1883〜1944)。岡田の思いと功績を書物の場に刻み込むように、同館のエントランスには、梁川剛一作の「岡田健蔵先生像」が据えられている。

エントランスホールで来館者を迎える、梁川剛一作「岡田健蔵先生像」

エントランスホールで来館者を迎える、梁川剛一作「岡田健蔵先生像」

人口約27万人の都市で蔵書数約68万冊、年間貸し出し数100万冊を超える函館市中央図書館の最大の売り物は、中世・近世以降の2万数千点に及ぶ北方関係資料と、石川啄木の日記、草稿、書簡などを集めた啄木文庫だ。生涯をかけてこれらを集め、昭和の大火(1934年3月21日)や、無理解の蛮声から守り通したのが岡田だった。

岡田が作った函館図書館は、函館山の麓の青柳町にあった(旧市立函館図書館として建物は現存)。市街の半分以上を焼失させた大火の日、岡田は自身が暮らす公舎が全焼するのもかえりみず、苦難の果てにようやく実現させていた不燃書庫の前に立ちはだかり、身を挺して猛火から蔵書を守った。
一方で、閲覧者の少ない高価な稀覯資料集めに猛進し、金策に駆け回る岡田には、たえず批判の声も浴びせられた。いわく、「趣味で骨董品ばかり集めている」。「本で市民の腹はふくれないゾ」。
しかし岡田には、誰にもゆずれない信念があった。
「人間がより良く生きるためには、郷土への思いを育まなければならない」
「そのためには、まずまちに対する知識や認識を高めていかなければならない」
岡田の選書を突き動かしていたのは、そうした強烈な使命感だった。

函館市中央図書館の現館長、丹羽秀人さんは言う。
「当館のもとになった函館図書館には、帝国大学や国会図書館にもない満州や樺太、千島の資料が豊富にありました。岡田さんは北海道に関する価値ある資料を幅広く探し出し、このまちに残そうとした。あの時代にそこまで徹底して取り組んだ人は、皆無でした。向学心のかたまりだった岡田さんは、同時代の人たちよりもはるかに長い射程で、まちのあるべき未来を見据えていたのだと思います」

丹羽さんは、小学校3年生から高校3年生まで学校の図書委員で、大学時代に司書の資格を取り、大学図書館でアルバイトをしていた。師とあおぎ、敬愛の念から館長室に肖像写真を置いているのが、全国で100館を超える図書館の計画策定に関わり、公共図書館のリーダーだった菅原峻(たかし)(1926〜2011)だ。
「菅原先生からはまず、『図書館に関わる仕事のスタートは図書館を愛することだ』という基本の精神を教わりました」

八雲生まれで八雲町役場に勤めていた青年時代の菅原を、本格的な図書館の道に導いたのは、戦後の函館図書館で司書をしていた岡田弘子。岡田健蔵の長女だった。
菅原は八雲の公民館に図書室をつくる仕事を担当したため、勉強のために函館図書館に通い、図書館のイロハを教わったのだった。
「菅原先生は弘子さんから、図書館に興味がありちゃんと勉強したいのなら東京の図書館職員養成所に入るのが良い、と背中を押されたそうです」

つまり丹羽さんは、岡田健蔵、岡田弘子、菅原峻という系譜につながる存在なのだが、現代の図書館が担うことはなんだと考えているだろう。
丹羽さんが立ち上げに深く参画した石狩市民図書館(2000年開館)は、まちに図書館をつくるのではなく、図書館の中にまちをつくる、という理念をかかげて誕生した。本や視聴覚資料の提供、レファレンスサービスなどにとどまらず、図書館を市民活動や人々の出会いや語らいの場にしよう。図書館が人を育み、その人たちが、行政や企業まかせではなく自律的にまちを成り立たせていく、という考え方だ。
「岡田さんの時代と比べると、現在の図書館に求められることはとても多様です。あの時代だから岡田さんは、郷土資料の収集に全力を注いだ。ではいまの私たちが同じことをすれば良いのか? ちがうと思います。そのことをいつも考えています」

丹羽さんは、紙媒体がどんどん電子化されることですばらしい便益が生まれながらも、電子化がもたらす問題も少なくないと考えている。
「例えば国土地理院の地図などでは、年度が替わるとデータが上書きされてしまうものがある。情報が、その時代を記録したモノとして存在しないことに、不安や不満が残ります。テキストでも画像でも、いまのフォーマットが50年後100年後にどうなっているでしょう? 誰にもわからないのではないでしょうか。でも、もしいまのText ファイルやJPGファイルの形式が残らなくても、実物があれば対応できます」

岡田健蔵は、児玉作左衛門や馬場脩といった当時の考古学・民族学の第一線の研究者たちとの交流もあり、博物学や博物館への志向も強かった。事実、函館図書館にはブラキストン(貿易商・鳥類学者)の鉄砲など、書物以外の実物資料も膨大にあり、五稜郭町に中央図書館が新築されたとき、蔵書・資料の整理運搬は、さながら発掘作業の様相を呈したという。

函館には、図書裡会という、長く活動を続ける文化団体がある。図書裡とは、岡田健蔵の号だ。現在もこの中央図書館などを舞台にさまざまな活動をしているが、長女の岡田弘子が長く会長を務めていた。

丹羽館長を訪ねた日、ちょうど図書裡会の歴史講座があり、今年で91歳の、その岡田弘子さんも聴講生としてお見えになっていた。寝食を忘れて図書館事業に打ち込んだ健蔵と図書館の思い出をたずねる僕たちに、「夜に雪が降った冬の朝は、青柳町の電停まで除雪するのが子ども時代の私の役目でした」、などと少しはにかむように語ってくださった。電停から図書館までは、優に200メートルを超える坂道だ。

地域の人口や経済力が減少していく時代に、図書館が担う役割はますます多様に、そして大きくなっていると思う。図書館は、経済指標とは別の次元で地域が自律的に成熟していくための、ひとりひとりの学びと気づきの場だ。
岡田健蔵が突き進んだ図書館づくりは、函館の成り立ちと未来を強く意識するものだった。明るく開放的な現在の中央図書館は、その精神をしっかりと受け継ぎながら、市民の文化活動の拠点としてもまちの暮らしに欠かせないものとなっている。五稜郭公園を訪れたなら、ぜひ中央図書館にまで足を伸ばしてみてほしい。

館内には、大のクラシック音楽ファンである丹羽館長オススメのCDコーナーも

館内には、大のクラシック音楽ファンである丹羽館長オススメのCDコーナーも

丹羽秀人(にわ・ひでと)

1956年北見市生まれ。国鉄職員だった父の転勤で網走、名寄、釧路などで高校までをすごす。本に関わる人生は、小学校3年生のときに学校の図書委員になってから。桜美林大学文学部卒。学校図書サービス(現TRC)でキャリアを積み、1997年、市立図書館を計画する石狩市役所へ。石狩市民図書館(2000年開館)開設準備室係長、石狩市民図書館主査。同館副館長。図書館による知とにぎわいの場づくりは、大きな注目を集めた。2015年春、TRCが指定管理者となった函館市中央図書館4代目館長に就任。

●函館市中央図書館
北海道函館市五稜郭町26-1
TEL:0138-35-6800