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津軽海峡の対岸に下北半島を望み、夜には漁火が浮かぶ。
北海道の最初の一歩は木古内で下車して「いさりび鉄道」から
――北海道新幹線開業の日、1世紀以上の歴史を持つ江差線は第3セクターとなった。
これから鉄道会社と沿線住民は様々なプランを打ち出してくるはずだ。
鉄路と地域の存続をかけた思いをうかがった。

伊田行孝-text&photo

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新函館北斗駅と木古内駅。木古内駅は新幹線といさりび鉄道の接続駅となる

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生活の足、観光の足

岡田普理衛が詩人・三木露風を講師としてトラピスト修道院に招いたのは1920(大正9)年、露風の有名な「赤とんぼ」は翌1921(大正10)年に書かれた。

「赤とんぼ」を、作ったのは大正十年で、處は、北海道函館附近のトラピスト修道院に於いてであった。或日午後四時頃に、窓の外を見て、ふと眼についたのは、赤とんぼであった。静かな空気と光の中に、竿の先に、じっととまっているのであった。それが、かなり長い間、飛び去ろうとしない。私は、それを見ていた。後に、「赤とんぼ」を作ったのである。」(三木露風「赤とんぼのこと」より)

もしも赤とんぼのいる夕景に機関車の汽笛が重なっていたのなら、この童謡は違うものになっていたのだろうかと考える。五稜郭と上磯の間に上磯線(当時は上磯軽便線)が敷かれたのは1913(大正2)年だが、トラピスト修道院のある渡島当別を通って木古内まで延伸されたのは露風が当地を去って数年後の1930(昭和5)年まで待たねばならなかった。さらに木古内駅~江差駅間が全通し、江差線と改称されるのは1936(昭和11)年のことである(木古内駅~江差駅間は2014年に廃止)。

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沿線の名所の代表格でもあるトラピスト修道院。正式名称は近くにある葛登志(かっとし)灯台に因み「灯台の聖母トラピスト修道院」。石ばかりの荒野を開墾し、1896(明治29)年に開院した。

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トラピスト修道院を模した「渡島当別駅」。構内に置かれたキリスト像が乗降客を見守る

上磯線の開通から1世紀以上が過ぎた今年3月26日、「新函館北斗駅」は北海道新幹線の開業に沸いた。1967(昭和42)年の全国新幹線網構想から半世紀を経ての一番列車だ。
そして同じ日。旧江差線の五稜郭駅~木古内駅の路線がJR北海道から第3セクター「道南いさりび鉄道株式会社」に移管され、江差線は道南いさりび鉄道線へと名称を変えた(以下、会社と路線ともに「いさりび鉄道」)。
いさりび鉄道を含めて新幹線開業に伴いJRから経営分離された第3セクターの鉄道会社は現在、全国に8つある(東北新幹線2つ、北陸新幹線4つ、九州新幹線1つ、北海道新幹線1つ)。すべてに共通する言葉は生活の足の確保だ。もちろん経営の見通しは明るいものではない。いさりび鉄道も今後10年間で23億円の赤字が見込まれている。
しかし、いさりび鉄道は生活の足に加えて、別の需要を生み出す可能性を有している。新幹線が北海道に上陸して最初の駅である木古内駅から接続されることと、国内有数の観光都市・函館とつながる路線であることから「観光の足」としての可能性だ。37.8kmという営業キロも観光路線として適当な距離感といえるかもしれない(函館~五稜郭間はJR線へ乗り入れ)。

勝又康郎・経営企画部企画営業課長は「鉄道は乗降客数だけで測れるものではありません。そして第3セクターは地元の力と行動なしでは動きようがない。いさりび鉄道をまちづくりの要素として活用いただけるかが最大のポイントになります」と語る。

地元の動きを担うのが沿線にある函館市・北斗市・木古内町の住民が組織した「道南いさりび鉄道地域応援隊」だ。2市1町それぞれ5名の15名で構成されている。隊長の吉川衆司さんは「この地域は人口減少も進み、さらに鉄道がなくなれば、まちの死活問題です。新幹線開業が経営分離の直接的な要因ですが、新幹線で来る人たちの観光の足になることができれば、むしろ江差線時代よりも地元を盛り上げることができ、結果として生活の足を守ることにつながるのではないかとプラスに考えています」という。

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勝又康郎さん。74名の社員のうち勝又さんを含む60名以上がJRからの出向組

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吉川衆司さんは木古内町にある札苅(さつかり)駅の近くで吉川商店を営む

「駅とは何か」から

二人は異口同音に「鉄路存続のベースは地域住民の利用。その基盤に観光需要を上乗せして乗降客数の増加を図るのが本筋」と語る。
勝又さんは駅のありようから考えるという。「五稜郭と木古内を除く10駅が無人駅となりました(注・ただし木古内は営業窓口なし)。駅は人が滞留し、交流する場。乗る人と降りる人だけではなく、無人駅なのにいつも人がいる。そんな駅にしたいですね」という。例えば、町内会の会合や地域のサークル発表の場として駅を使う。そして学校との連携も模索する。文化部の発表や「壁新聞」を中吊り広告風に掲載することも考えている。「人生の中で最も鉄道の思い出が残るのは通学で使う高校生の時ではないでしょうか。いずれ沿線から巣立っていっても、いさりび鉄道を外で発信する応援団になってくれるはず。高校生たちと一緒に駅づくりをしてみたいと本気で思っています。そういう意味でも、ローカル線として勝負したい」
吉川さんは「婚活列車も構想しています。外からお嫁さんが来てくれれば確実に人口が1人増え、子どもが生まれればさらに増えていく。これは一例ですが、目指すのは広い意味での地域づくりです。その入口としていさりび鉄道を活用していきます。住みよい地域であることを伝え、セカンドライフでの移住促進も進めたい」と思いを口にする。

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今後、観光列車としての活用にも期待がかかる「ながまれ号」は人気が高い。通常は一般のダイヤで運行されている。ながまれ号も他の列車もJRから譲り受けたキハ40系の車両を使用(札苅駅)

もう一つの柱と期待される観光需要の創造では、沿線の魅力と地域資源をつなげ、発信していく予定だ。食材、歴史・文化、景観といった地域資源は豊富にあり、かつ函館市からの距離も近い。夜には津軽海峡の海に漁火が浮かぶ。
「途中下車の旅を楽しんでほしいのですが、時間帯によっては次の列車まで間が空くので、その時間を過ごす情報と提案が大切です。例えば、東久根別~久根別~清川口~上磯の間はそれぞれ1kmと少しなので、駅間を歩いてもらう。この沿線にはお菓子屋さんやパン屋さんが駅近くにあるケースが多いので、ちょっとした買い食いルートの提案も考えています。周遊きっぷも必要になります。やるべきことは山積みですが、楽しいですよ」。それもそのはず、勝又さんはかつて勤務したJR北海道旭川支社時代、稚内から鹿児島の指宿枕崎線の終点までを乗り継ぐツアーなどを開発してきた人。「おバカな企画が好きなんです」と笑う。

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沿線の北斗市からは函館湾をはさんで函館山を望むことができる。沖へ伸びるセメント工場の施設が印象的

吉川さんは「鉄路の存続というテーマによって、今まで接点のなかったまちの人たちとつながりができました。今後の財産です。先を見れば新幹線の札幌までの延伸があります。そうなると木古内駅や新函館北斗駅で降りる人は確実に減る。今のうちから行動を起こさなければ間に合わなくなります」

新幹線で来道し函館駅へ行くためには新函館北斗から乗り換える必要がある。ならば、一つ手前の木古内駅からいさりび鉄道で函館を目指すのも悪くはないはずだ。車窓の景観を楽しみ、時に途中下車しながら、のんびりと北海道の第一歩を始めるのもいい。

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車両には小さく「道南いさりび鉄道」のエンブレム

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いさりび鉄道の待合室には応援の気持ちを書いたステッカーや短冊がはられている(写真はともに木古内駅)

●道南いさりび鉄道
http://www.shr-isaribi.jp/

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