函館の各界で活躍する函館人の心には、郷土の大先輩たちが生きている。
函館人が語る函館人の物語から、このまちならではの成り立ちやぶ厚い歴史が聞こえてくる。
文政10(1827)年、伊予大州(愛媛県大州市)生まれ。10代で漢詩に精通し文学的才能を開花させる。その後大坂の緒方洪庵(こうあん)の塾で蘭学を学ぶ。次第に兵学へ興味を持ち、西洋兵学を学ぶため江戸の蘭学者・伊東玄朴(げんぼく)、兵学者・佐久間象山(しょうざん)に師事。幕府に出仕し、箱館奉行所詰めとなる。奉行所に近接して科学技術を教える諸術調所を開設。のちに郵便制度を創った前島密、鉄道事業の井上勝など、全国から優秀な若者が集まった。新島襄は斐三郎との面談を希望して箱館まで来たが出会いはかなわず、ハリストス正教会のニコライ神父の元に一時身を寄せていた。元治元(1864)年、五稜郭完成後に箱館を去り江戸で兵学教授となる。明治に入って陸軍士官学校教授を務め、明治13(1880)年54歳で病没した。
※上の写真は、HTBまめほん8「武田斐三郎」(昭和46年7月5日 北海道テレビ放送 発行)より
観光客でにぎわう五稜郭タワーの1階に、3つの銅像がある。ガラス張りのアトリウムにたたずむ土方歳三は大人気だ。さらに、エレベーターホールには榎本武揚。幕末ファンあこがれの2トップがそろう。
そして、かたわらに建つもう一人が武田斐三郎である。しかし、彼の業績の全貌を知る人は少ない。箱館戦争の舞台にもなった五稜郭は、斐三郎が西洋兵学と築城技術を結集して作り上げた洋式城郭だった。
だが、彼を兵学者と呼ぶには少々言葉が足りない。洋式の溶鉱炉の建設や、その築造に欠かせない耐火レンガの開発、砂鉄や炭鉱の採鉱・冶金(やきん)など、近代工学や科学の分野で日本のフロンティアを拓きつづけた。イギリス船で見たストーブをもとに、国産ストーブ第1号を作ったという話もある。その多才ぶりは、レオナルド・ダ・ヴィンチにすら例えられている。
斐三郎には、優れた教育者としての顔もあった。
安政3(1856)年、諸術調所(しょじゅつしらべしょ)という教育機関を開設する。それまでの官立の学校は、士族の子息など限られた身分の者が学ぶ場だったが、斐三郎は身分にかかわらず意欲ある者を受け入れた。授業は兵学のほか天文学、数学、鉱物学、物理学、化学、造船術など。今でいう理工系の実学的な内容を、オランダ語の教科書で教えていたという。また、実験や実習に重きを置き、講義だけでなく、学生と膝をつきあわせて対話し学び合うというスタイルも革新的だった。
あらゆる者に開かれた総合的な理工系教育は、日本が世界とつながっていく新しい時代を強く志向していた斐三郎ならではの実践だった。それを裏付けるように、学び舎からは近代日本の立役者となる人材が輩出されている。
「斐三郎自身、ものごとへの興味が尽きない人だったのでしょう。探究心に火がついたことを、とことんやってみる。そして、自分の感じたおもしろさを伝えようと、あらゆる人を受け入れ仲間を募る。斐三郎が行ったことは、はこだて未来大学が実践していることによく似ている気がします」
こう話すのは、公立はこだて未来大学教授・美馬のゆりさんだ。大学の立ち上げから深く関わってきた美馬さんは、函館のまちを初めて訪れたときのことを、鮮明に覚えていると言う。ちょうど夏の、五稜郭を舞台に開催される野外劇のシーズンだった。
「市民が演者から裏方まで務めていて、見ている市民も『ちょっと出てこよう』と飛び入り参加したりする。演者と観客の垣根がないことに驚きました。そのとき、函館は私たちが市民と共同できるまちだと感じたんです。大学という囲いの中だけでなく、市民と一緒に活動できる。どこにもお手本のない大学をつくろうと構想したはこだて未来大学では、共同性と社会性が鍵を握っていました。『このまちでなら、自分たちのやりたいことができる!』と思いました」
美馬さんが特に力を注いでいるのが、科学コミュニケーション活動だ。地域の教育機関等の連携組織「サイエンス・サポート函館」の代表を務め、2009年から毎年夏に「はこだて国際科学祭」を開催している。これは、函館のまちを会場にした科学の“お祭り”だ。だが、美馬さんの言うお祭りは、昨今の観光コンテンツとしての祭りとは少し違っている。
「お祭りって、もともと地域住民の人たちが参加し、楽しむためのものですよね。そのコンテンツとして、歴史や音楽、映画、グルメ、科学など、いろんなものがあっていい。お祭りは、老若男女いろいろな人たちが学びあう場になっています。この楽しむ機会を地域以外の人におすそ分けしたらどうなんだろう。お祭りを見に来るんじゃなくて、参加するために来てもらう。その情報を国内外に発信するには、デザインやITの力が不可欠。多様なお祭りがある“祝祭都市函館”を実現したいのです」
科学祭では、環境・食・健康から毎年ひとつのテーマを取り上げ、市内各所で30以上のプログラムが繰り広げられる。メイン会場は、斐三郎ゆかりの地、五稜郭にある五稜郭タワーのアトリウムだ。
出展者と来場者のあいだには、お祭りを一緒に楽しむうちに教える人と学ぶ人という一方通行ではない、対等なコミュニケーションが生まれる。斐三郎が幕末の箱館で実践しただろう“学びの共有(シェア)”ともいうべきものが、こうして科学祭という形で引き継がれている。
しかし、斐三郎の時代にはおそらく見えていなかった学びの世界があった。
それは女性への教育だ。諸術調所にはおそらく女性の姿はなかった。美馬さんは、科学的な見方や考え方を身につけることは、女性が外の世界へ踏み出す力になると言う。
「科学の目を持つと、問題に直面した時、『なぜこうなるのか』と考えることができます。その原因や理由を知るために、外の世界へ一歩踏み出してみる。私は“バスが来たら乗る”と言うのですが、乗ってみれば見える風景が変わるかもしれません。そして新しい世界が広がっていることが見えてくれば、人生をより良く生きられるでしょう」
ひとつのことを深く考え、まわりの人たちと刺激的なコミュニケーションを楽しみながら、仲間といっしょに新しいモノやコトをつくり出していく――。美馬さんは、こうした科学的思考を持つ人を男女にかかわらず「リケジョ(理系女子)的」と表現する。文系の人の中にもこうした資質をもつ人は少なくないだろう。だからリケジョではなくリケジョ「的」なのだ。閉じられた自己満足でなく、開かれた場へ自らと周囲を連れ出すことができる人材のことだ。
こんな話がある。
斐三郎の自宅の庭には、渋くて食べられないナシの実があった。このナシで果実酒造りを思い立ち、学生を巻き込んで醸造に成功。すると、奉行が酒を「梨花春」と名づけてくれたという。
斐三郎とその門下は悪党連と呼ばれていたそうだ。彼ら自身が、日常の些細なことを科学の目で嬉々として捉えなおしていたことが、周囲の人に驚きを与えたのだろう。
美馬さんも、クルマバソウという北海道に自生するハーブに着目し、産官学各界の仲間たちと共同で「クルンバッソ」というアイスクリームを開発していた(函館ハーブアイスクリーム・クルンバッソ/函館酪農公社)。どこか斐三郎を想起させる話である。
もし、現代に斐三郎が生きていたら。そんな問いは無意味かもしれない。しかしきっと函館のまちを教育の場に選んだだろう。日本で最初に欧米に開かれたまちのひとつであることに由来する、あらゆる人を受け入れ、価値を共有し、垣根を越えて開かれていくまち。ここで斐三郎は美馬さんや学生たちと、リケジョ悪党連を結成していたに違いないと思うのだ。
昭和35(1960)年、東京都生まれ。小学校時代から理数系に興味を持ち、中学高校では数学部に所属し、コンピュータに出会う。電気通信大学でコンピュータサイエンスを専攻。外資系コンピュータメーカーに勤務したのち、ハーバード大学大学院教育学研究科へ留学。さらに東京大学大学院教育学研究科で認知科学を学び、日本科学未来館(東京)と公立はこだて未来大学の設立に関わる。2000年の大学開学と同時に函館へ移住、教授となる。未来館では2003年から3年間副館長を務めた。専門は学習科学、学習環境デザイン、科学コミュニケーション。著書に『理系女子(リケジョ)的生き方のススメ』(岩波ジュニア新書)など。
●五稜郭タワー
北海道函館市五稜郭町43-9
www.goryokaku-tower.co.jp
●市民創作 函館野外劇
www.yagaigeki.com
●公立はこだて未来大学
北海道函館市亀田中野町116-2
www.fun.ac.jp
●サイエンス・サポート函館
www.sciencefestival.jp