第2農場の歴史を歩く(2)

現代に続くものたち

明治時代、札幌農学校には欧米から多くの農機具が輸入され、馬を使った大規模な作業が試験的に行われた

1876(明治9)年に誕生した第2農場は、1968(昭和43)年まで北海道大学農学部附属第2農場として利用されてきた。時代とともに変わった部分も多いが、明治初頭にできた設備には今も検討が続く課題もあるという。現代につながる農場の世界を、もう少しゆっくり辿ってみたい。
石田美恵-text 黒瀬ミチオ-photo

牛舎の課題

1887(明治20)年、札幌農学校は道庁から新たな土地を譲り受け、「第1農場」と名付けた。先に「農黌園(のうこうえん)」として開設していた土地は「第2農場」と改称。それぞれの役割が明確になってきたようだ。1898(明治31)年に出版された『札幌農學校』という冊子には、次のように記されている。

「第一農場は専ら學生生徒の實習並に各種の試験場に充つ、第二農場は歐米の農業法に則り、牧畜耕作の業を専らとし、北海道に於ける大農の適否如何を極め、持って本道農界の模範となせり」(北海道大学図書刊行会発行 『復刻 札幌農學校』より)

「明治にできた牛舎をよく見ると、畜産界でいまも課題となっている点がいくつもあります」。北海道大学総合博物館資料研究員として、第2農場を担当する北大名誉教授の近藤誠司さんが教えてくれた。
たとえば、牛舎の換気システムについて。
牛を複数飼育する牛舎では、つねに新鮮な空気を取り込む「換気」が重要である。第2農場のモデルバーンや牝牛舎は、当初「キング式換気システム」という方式が採用されたといわれる。これは、ウィスコンシン大学のキング博士が発表した重力式換気システムで、汚れた空気は温かく軽いため、建物中央に突き出た高い煙突から自然に出て行く仕組みである。
ところが現存のモデルバーンを見ると、中央煙突のほかに小さな煙突が4本追加されている。牝牛舎もしかり。これらは当初のシステムがうまく働かず、長年にわたる試行錯誤の結果、途中で改修・追加されたのだろうと推測される。「その後、いろいろなシステムが考案されていますが、どれを採用するかは各酪農家の判断にゆだねられ、いまでも大きな課題になっているのです」。

こんなふうに見ていくと、これまで遠く感じられた歴史的建造物群が、途切れなく続くタイムトンネルに思えてきて、ますます面白い。

屋根側面に小さな煙突が残る牝牛舎

ブル先生の穀物庫

モデルバーンの内部には、当時輸入された農業機械類が数多く展示されている。何頭もの馬に引かせる大きな耕耘機、麦刈り機、様々な作物の播種機、収穫機、等々。近藤さんは以前、ここで見学していた人から、「こんなに機械があったのに、なぜうちの先祖の農業はなかなか楽にならなかったのでしょう」と問われたことがある。
「昭和20年代でも、北海道の農家には馬が1頭いるかどうかというのが現状でした。クラークたちが明治初頭に構想した大規模な農業スタイルは、その後方針が変わるなどして、そのままは進まなかったのです」と近藤さんは話す。

ここで少しだけ北海道開拓と農業の流れをひもといてみたい。
明治初頭からスタートする北海道開拓使の仕事には、二つの大きな目的があった。一つは対ロシアの南下に備えること、もう一つは北海道の資源開発や産業化をすすめること。後者のためにアメリカからホーレス・ケプロンを招いて最高顧問とし、多くの外国人教師を雇って技術の導入に努めた。札幌農学校開校もこうした流れの一環にある。

クラークが率いた札幌農学校は、アメリカ流の小麦を中心に家畜を導入した大規模な畑作農業を推奨した。従来の米作りは北海道では不向きとされ、移住者に小麦を主食とするよう提言した。しかし、長い間米を食べてきた人々にとって、食習慣を変えることは受け入れられず、各地で米作りが行われた。農学校でも稲作の講義や研究が行われ、1892(明治25)年に道庁は米作り奨励へと方針を大転換した。また、農学校はアメリカ式の大規模農業だけでなく、ヨーロッパの中小規模の農業をモデルに取り入れるようになった。
大正時代に入ると、宇都宮仙太郎や黒澤酉蔵といった北海道酪農の先駆者たちが、冷害に強い酪農中心のデンマーク農業を提唱し、道庁もその方針を受け入れる。度重なる冷害で大凶作に悩まされてきた北海道は、土地の特性を生かした適地適作を目指し、多様な研究が重ねられることになっていく。

かくのごとく、クラークらが提唱した当初の風景は、北海道でそのまま実現したとは言いがたい。しかし当時の農学校が、様々な作物や家畜を導入し、最新の技術や機械を紹介し、多様な広い世界について熱意を持って伝えてくれた場であったことに間違いはない。
クラークの後をついで農学校に赴任したウィリアム・ブルックスのことを、農学校第2期生の新渡戸稲造がこんなふうに書き残している。

「性質まことに実直にして、物事を気に掛くる程精密ならんことを願ひ、吾々血気の書生輩より見しときは、如何にも小胆なる様に思はれたり。教場にて生徒等のあまりに学科出来ざる時は、(中略)鼻をすすりて涙ぐみ玉ひ、且つ平素不勉強の学生輩は、後に残していとねもごろに説き聞かせられけり。
或いは病気のため欠席せしものある時は、自ら寄宿舎まで見舞に来りませり。これとても敢えて学生の歓心を買はん為にはあらで、心底より親切心のありしやうに見受けられたり」(札幌農学校学芸会記念誌『恵林』第14号所収/高井宗宏編『ブルックス札幌農学校講義』より)

第2農場の穀物庫(コーンバーン)は、ブルックスの設計といわれる。彼は妻とともに札幌で12年間暮らし、農学校の講義や実習だけでなく、学外でも一般農家にタマネギやトウモロコシなどの栽培を指導した。穀物庫を見学していると、学生や近所の子どもたちからも「ブル先生」と慕われた彼が、いまもふと物陰から現れるような気がする。
第2農場は、今と明治が離れた次元にあるのではなく、絶え間ない連続のうえにあることを、そこで多くの人々が農業に挑んできたことを、確かに想像させてくれる場所である。

明治時代に輸入された農業機械

農学校の講義で使われた「掛け図」。牧草の種類や作物の植え方などがよく分かる

穀物庫2階内部。
ほとんどの部材が建築当時のものだ


[参考文献]
・ジョン・M・マキ著 『W・S クラーク-その栄光と挫折-』 北海道大学出版会
・『復刻 札幌農学校』 北海道大学図書刊行会
・湯沢 誠編 『北海道農業論』 日本経済新聞社
・大田原高昭著 『北海道農業の思想像』 北海道大学図書刊行会
・高井宗宏著 『ブルック農学校講義』 北海道大学図書刊行会
・高宮英敏著 『酪農語録-北海道酪農を築いた人々-』 酪農学園大学エクステンションセンター
・佐藤昌彦著 『佐藤昌介とその時代 増補・復刻』 北海道大学出版会

札幌農学校 第2農場
北海道札幌市北区北18条西8丁目
TEL:011-706-2658(北海道大学総合博物館)
屋外公開 8:30~17:00(通年)
屋内公開 10:00~16:00(通常4月29日~11月3日)
毎月第4月曜休館
WEBサイト

この記事をシェアする
感想をメールする
ENGLISH