北海道林業のはじまり-2

飛騨屋と阿部屋から見る蝦夷の森

18世紀半ば。石狩川河口のこのあたりに木場があり、石狩川流域から大量の木材が集められた

檜山管内の江差からはじめた蝦夷地の林業をめぐる旅だが、2回目は石狩に飛んでみよう。18世紀半ばの石狩川河口には、大きな木場があったという。その痕跡をさがしに歩いてみた。
谷口雅春-text&photo

野幌の森で見つかった江戸期の林業の痕跡

札幌と江別、北広島の3市にまたがる野幌丘陵には、都市化が進んだ現在でも大きな森が広がっている。野幌森林公園だ。野幌原始林とも呼ばれるように、一部には天然林も残っている国の特別天然記念物。戦中と敗戦直後は木材需要のために人の手がかなり入ったが、その後は守られ、周辺の人々にとっては暮らしの身近に自然の豊かな営みが移ろう、大切な森となっている。
北海道森林管理局OBで歴史研究家だった地蔵慶護は、「北の造材師飛騨屋久兵衛」と題した千歳民報の連載で興味深いエピソードを引いている(北海道林業技師会ブログ)。考古学者河野広道が1953(昭和28)年の放送番組で、戦後野幌の森に道をつけるときに江戸時代の茶碗や皿が発見されたが、これは飛騨屋の作業小屋の跡だろうと言った、というのだ。江戸時代中期の和人の痕跡が道央圏の内陸の森で見つかったことには、驚きとともに納得もおぼえる。

このことに深くつながる話を、石狩の村山耀一さんから聞いた。宝暦年間(1751-1764)の石狩川河口には大きな木場(貯木場)があったことが、「飛騨屋石狩山伐木図」という絵図などからわかっているのだ。村山さんは、近世蝦夷地の大商人(廻船業)である、能登にルーツを持つ阿部屋村山家の第10代に当たり、石狩市郷土研究会会長を務めている。
木場は石狩川河口左岸のホリカムイにあった。現在の石狩八幡神社のすぐ南の河畔で、20世紀初頭からはサケの屈指の好漁場としてにぎわったのだが、どちらもいま遺構らしきものはまったく残っていない。しかしこの場所が、近世蝦夷地の林業の重要な拠点のひとつだった。
石狩川の中流域の山々で伐採され、流れを利用してここに集められた木材は、河口から江戸や大坂、京都などに盛んに移出された。和人にとっては未踏の山に杣夫(そまふ)を入れてエゾマツなどを伐り出し、これを谷から出して大河の流れに乗せ、河口に集めて移出する。そんな難しい大事業に取り組んだのは、武川久兵衛倍行(まさゆき)。木曽の飛騨の国(現・岐阜県北部)出身の材木商で、蝦夷の近世史では4代にわたって飛騨屋久兵衛として登場する重要人物だ。

前述の地蔵慶護や三ツ木芳夫(札幌大学女子短期大学部教授)、そして村山耀一さんなどの研究をもとに飛騨屋と石狩の関わりをなぞってみよう。
ヒバの産地である南部藩の大畑(現・青森県むつ市)にいた初代の飛騨屋久兵衛が、津軽海峡対岸の松前に渡ったのは1702(元禄15)年。松前藩の請負として蝦夷地で造材に取り組む野心に燃えていた。蝦夷地特産のエゾマツはエゾヒノキとも呼ばれ、帆柱や建築資材への需要が高く、さらに障子や台、曲げ物などに加工すると木目の美しさが人気だった。
松前周辺の山にはすでに他国からの山師が入っていたので、まず奥地の山々の調査をはじめた。もちろんアイヌの人々の案内や協力が欠かせなかった。当時の林業は、川をさかのぼった地点で冬期に伐採をして、雪解けで増水する流れを利用して河口域まで運ぶもの。
1719(享保4)年ころからは臼山(有珠山)一帯での伐木を請け負った。この初代は1728(享保13)年に木曽で没したが、2代目久兵衛は尻別川上流域(羊蹄山、尻別岳、貫気別岳一帯)に入っている。3代目になると事業はさらにふくらみ、上ノ国(檜山管内)や日高の沙流川、道東の釧路川や標津川、空知の夕張川、道央の漁川や豊平川などの各上流域で伐採を行い、丸太や一定の規格の材(寸甫材・すんぽざい)にしてからそれぞれの河口から移出した。石狩の木場に集められたのは、石狩川水系の夕張川、漁川、豊平川の流域で伐られたエゾマツなどだ。食糧の調達にも苦労する冬場の山仕事に加え、治水や護岸が整えられた現在とちがって、奔放な自然の流れのままの流送は、どれほど危険で困難なことだったろう。野幌森林公園で見つかった飛騨屋の作業小屋の食器なども、この3代の時代のものだろう。

飛騨屋は毎年150人ほどの杣夫と、事務方や物資の輸送人員、斧や鋸(のこぎり)、鳶口(とびぐち)などたくさんの道具のメンテナンスを行う鍛冶たち、そして危険な流送を担う男たちを山に入れた。伐採や流送を担うのは主に、蝦夷地に渡る前の本拠地だった下北の大畑でヒバを伐っていた男たちだ。
松前藩と契約を結び、原始の自然を相手に大量の人とモノと金を動かし続けることは、並みの商人にできることではない。木材を内地へと出荷する船も自ら建造しなければならないし、大坂や江戸に販路の拠点も必要だ。そして飛騨屋は、往路では木材のほかに蝦夷地の海産物などを運び、復路では大坂や江戸から米や酒や生活物資を持ち込み、蝦夷地で商った。こうして大きな利を蓄えていく。

石狩市郷土研究会会長村山耀一さん

手水鉢が語る石狩の木場の歴史

3代目飛騨屋久兵衛が大きな商いを展開していた18世紀半ばの宝暦年間。木場が設けられた石狩川の左岸河口は、石狩八幡神社の少し先にあった。現在の河口に比べるとなんと2キロも手前だ。石狩川の河口は、ここ150年ほどでそれほど延びたことになる。なぜだろう。
理由は、石狩川が運んできた土砂が、日本海を北上する対馬暖流の力で北側に砂嘴(さし)を延ばしていったことにあった。近代になって1892(明治25)年には河口の先端に石狩灯台が建てられたのだが、河口の位置はその時点ですでに宝暦のころより5百メートルも下流だ。

村山耀一さんは、飛騨屋と村山家の阿部屋には共通点があって興味深いという。まず初代が蝦夷地の松前に渡ったのがほぼ同時期であること(阿部屋1700年、飛騨屋1702年)。そしてともに3代目の時代に絶頂を迎えたこと。
「3代村山傳兵衞は、最盛期には石狩川水系の13場所をはじめクナシリ、厚岸、釧路、宗谷など合計35の場所の経営を松前藩から請け負い、西の鴻池善右衛門、東の村山傳兵衞と呼ばれるほどの豪商となりました。名字帯刀を許され、1万石の大名に匹敵するほどの財力を持ち、そのことで大商人たちの強烈な妬みを買いました。そこから村山家の波瀾万丈の歴史が展開していくのですが」

一方の飛騨屋久兵衛の3代目時代。財政基盤が弱かった松前藩は、豪商たちからつねに借入を起こしていた。そしてこの時代に藩は、飛騨屋への返済に窮して、厚岸や霧多布、クナシリなどの交易所の経営権を飛騨屋に譲渡することを決めた。積み重なった膨大な借入金を返済できる目途が立たないために、交易の上がりを与えることにしたのだ。飛騨屋はほどなくして宗谷場所の経営も請け負うことになる。しかし材木商の飛騨屋にとって、漁業を柱とする場所請負は簡単ではない。そこで宗谷場所の実務は、阿部屋村山家が下請けに入って担うことになった。さらに村山家は、飛騨屋から江戸の新宮屋に渡っていた石狩川流域の伐木権の名義も手に入れる。1788(天明8)年から8年間の契約で、海の大商人村山家が、木材事業を本格的に経営した時代もあったのだ。

そして1789(寛政元)年、飛騨屋が場所請負を務めていたクナシリ・メナシ(国後と目梨。メナシは現・羅臼町)で、飛騨屋の拙劣な経営や横暴に対するアイヌ民族の不満が爆発。凄惨な戦いが起こる。近世アイヌの最大の戦いといわれるクナシリ・メナシの戦いだ。アイヌ側では約130人が命を落とし、和人も70人以上が戦死した。和人たちの多くは、飛騨屋ゆかりの下北の大畑から出稼ぎに来ていた杣夫たちだ。からだひとつで山仕事に生きてきた者たちが漁業という畑違いの仕事に苦戦しながら、蝦夷地の最果てで不条理な戦いになかば巻き込まれたのだ(飛騨屋の功罪をめぐる話は次回)。
菅江真澄の『えみしのさえき』には、このとき松前から蝦夷地の西海岸を旅していた真澄がクナシリ・メナシの戦いの一報を聞いて驚く、という一節が出てくる。

戦後処理の一環として村山家は、飛騨屋が持っていた道東の場所の請負を藩から命じられる。加えてカラフトと斜里場所も請け負った。3代村山傳兵衞の絶頂と苦難の歴史のはじまりだった。ほどなくしてロシア船やイギリス船の蝦夷地来航があり、北からの外圧に危機感を募らせた幕府は、もはやこの島を松前藩に任せてはおけないと、蝦夷地の直轄に踏み込むことになる(第一次幕領期。1799-1821年)。

石狩川河口の木場にもどろう。
宝暦年間(1751-1764)の絵図によれば、木場のすぐ上流側に辨財天(現・石狩弁天社)と運上屋(交易拠点)がある。辨財天は村山家の家神だ。もともとはサケの豊漁を祈るために松前藩士によって17世紀末に創始された祠(ほこら)。創始のころはさらに河口寄りにあったが、19世紀はじめにいまの八幡神社の場所に移された。厳島大明神と稲荷大明神に加えて、妙亀法鮫(みょうきほうこう)大明神が祭神となっていることで知られるが、これはアイヌのチョウザメ信仰と和人の明神信仰(神がある姿をもって現れる)を習合させたユニークなもので、村山家はこの神によってサケ漁の働き手であるアイヌの人々と和人の共存を計ったのだった。
明治になって対岸にあった八幡神社(箱館総社八幡宮の末社)を左岸に移すことになり、村山家のものである辨財天を同家の土地に遷座して(現在地)、辨財天のあった土地に八幡神社を据えた。不思議なことに同社の鳥居はいまも、そこにあった辨財天のものだ。

いしかり砂丘の風資料館(石狩市)には、遷祀(せんし)する前の辨財天にあった手水鉢(ちょうずばち)が展示されている。辨財天が移ったあとも130年以上石狩八幡神社の手水鉢として使われていたもので、クナシリ・メナシの戦いがあった1789(寛政元)年、江戸の本材木町(日本橋)の材木商小林店喜兵衛が飛騨屋の拠点があった南部大畑村(下北半島)に制作を依頼して、辨財天に奉納したことがわかっている。側面には、「南部大畑村」の文字が見える。
はるか西方では近代市民社会の源流となるフランス革命が起こり、蝦夷地の東方(メナシはアイヌ語で東の意味)では和人とアイヌのあいだに悲惨な戦いが起こったこの年。江戸と下北半島(南部大畑)の材木商、そして松前の請負商人と石狩の深い関わりによって蝦夷地の林業は大規模に展開されていた。その史実に興味は尽きない。

「石狩八幡神社の手水鉢」。いしかり砂丘の風資料館所蔵・石狩市指定文化財

石狩川左岸河口近くにたたずむ現在の石狩八幡神社

いしかり砂丘の風資料館
北海道石狩市弁天町30-4
TEL:0133-62-3711
開館/9:00〜17:00
入館料/300円(中学生以下は無料)
休館/毎週火曜日(火曜日が祝日の場合はその翌日)、年末年始

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