私の元には、ときおり、電話やメールが入る。
「『寿都五十話』が欲しいんですが、どこにも売っていないんですよ。余っていませんか?」
「すいません。もう品切れになってしまいまして」
「そうですか…。増刷の予定は?」
「いやあ、その予定もないので、申し訳ないんですが、図書館で借りてもらえませんか」
自費出版本は、自分の出す年賀状の枚数と同じ数しか売れないという説がある。たかだか100枚の年賀状を書くだけの人間が1000部の本を作り、2年で完売した、というのは自費出版の世界では異例かもしれない。
私は、寿都町・島牧村・黒松内町の南後志3町村の歴史を調べ、そこに生きる人たちの人生を訊き、いくつかの著作を発表してきた。本業は気象庁の職員であるが、物書き業も生活の大きな部分を占めている。
ただ、調査を始めた10年前には、自分が本を書くなど考えてもいなかった。いま振り返って、小さなきっかけが積み重なり人生は大きく変わっていくと実感している。
大学で物理学を学んだ私は、大学院では雪氷学を専攻し、2003(平成15)年に気象庁に入庁した。はじめは東北地方の気象台や航空測候所に勤務していたが、2006(平成18)年、寿都測候所への転勤を言い渡される。「小さな職場だから、みんなと仲良くやってね」という上司の言葉は上の空で、学生時代に見た情景を思い出していた。フィールド調査をする友人の手伝いで寿都のとなりの島牧村を訪れたことがあったのだ。浜にテントを張って、日本海を染めあげる夕日を眺め、翌日は、緑のブナ林を吹くそよ風を受けながら、広い川原を歩き続けた。北海道一の美しい自然だと魅了され、じつは、東北時代にも夏休みには島牧に来ていた。その隣町で働けるとは…。幸運を喜んだ。4月に寿都に赴任すると、山菜採り、海釣り、川釣り、山登り、沢登り、野湯探検、キノコ採り、スキーなどを満喫しはじめた。天国のような毎日だった。
ところが、2年後、衝撃的な知らせが舞いこむ。2008(平成20)年10月1日をもって職場が閉鎖されるという。この町にいられる残りの日数を数えながら、閉鎖に伴う業務に追われだす。そのひとつが、測候所史の編纂であった。
寿都測候所は、1884(明治17)年に寿都郡役所のなかに測候主任が置かれたことに始まる。約3000人が住むだけの現在の寿都をみていると、どうして、ここに測候所が設けられたのか、と不思議にも感じるが、当時は道内7位の人口を誇る町であった。それを支えたのがニシンである。春になると、沿岸にニシンが押し寄せ、それを求めて、建網をたてる親方、使われる漁夫たちが集まってきた。明治から大正なかばにかけて、寿都では、毎年4万石(約3万トン)以上のニシンを獲りつづける。漁業関係者が潤えば、それをあてこむ商人もやってくる。測候所のほかにも、支庁や裁判所・警察署・税務署・営林署など各種行政機関が置かれ、町は発展していった。しかし、1918(大正7)年、寿都は史上初の大不漁に落ちこむ。明治末期には、寿都本町だけで1万人ちかく、現在の寿都町にあたる地域には2万人をこえる人々が住んでいたが、大正末期にはともに半減した。
ところが、測候所の歴史を調べるうち、このような町の歴史がどこにも書かれていないことに気付いた。役場が発行した公的な町史はもちろんあるのだが、満足のいくものではない。歴史を書く上でもっとも基本となるはずの町の人口の変遷すら書かれていないのである。
そこで、昔を知る町民に会い、資料を自分なりに調べ、ホームページを立ち上げて、成果を発表するようになった。そのなかのひとつ、寿都空襲についての記事を作家の菊地慶一さんに見せると、自費出版をすすめられた。本とも言えないような薄い冊子を2009(平成21)年に出版すると、予想以上の反響をよんだ。自分が興味をもって調べて書いた文章が、人に喜んでもらえる。こんな面白いことが世の中にあったのか、と思った。
調査や執筆を本格化させ、ニシン漁・鉄道・鉱山など、寿都の歴史を2年がかりで調べた『寿都五十話』を2014(平成26)年に、南後志3町村の住民や出身者あわせて53人に人生を訊いた『南後志に生きる』を2016(平成28)年に、1891(明治24)年から1945(昭和20)年までの寿都の写真を集めた『寿都歴史写真集』を2018(平成30)年に、いずれも自費出版した。最近では、南後志を飛びだし、岩内町や仁木町でも取材するようになった。
現在の私は、釣りも山登りもスキーもやめてしまった。山菜採りとキノコ採りだけは続けているが、それも年に数回だけだ。仕事に行く時間と睡眠時間を除き、残りの時間の9割を物書き業に費やしている。
だが、ここまで駆り立てさせる寿都の歴史、後志の歴史、その魅力は何だろうか? ふだんは意識しないが、あらためて考えると、いくつかの答えが思い浮かぶ。
ひとつ目は、これまでほとんど着目されてこなかった分野だということだ。たとえば、私と縁が深い物理学や雪氷学・気象学といった学問は、国内外に膨大な数の研究者がいて、その分野の新参者は、これまでに築かれたことを一通り勉強するだけで、多大な時間を消耗する。札幌や函館など大きな都市の歴史についても同じことがいえる。一方で、後志の町村レベルの歴史であれば、調べられていないことがたくさん残っている。寿都の歴史など、何を調べても、第一人者になれるのだ。
ふたつ目は、人だと思う。私は、資料からみる歴史にも取り組んではいるが、どちらかというと、人が語る歴史を重視している。したがって、人に会うことが大事なのだが、この地域では、よそ者に対する排他的な雰囲気を感じることが少ない。私の経験では、10人に声をかけると、9人までは取材に応じてくれる。根掘り葉掘り自分について訊かれた上に、それを世に発表しようというのだ。こんな闖入者を相手にする必要などないはずなのに、ありがたいことである。その背景には、みずからの生きた証を残したいという気持ちや、着目されることの少ない町の歴史を本にするのなら協力してやりたいという気持ちがあるように感じる。
みっつ目は、この地域の多面性である。ここには、さまざまな人生経験を積んできた人たちがいる。たとえば、1920(大正9)年に寿都に生まれた佐藤喜悦さんは、寿都鉄道から南満州鉄道に移ったがために、敗戦まぎわのソ連軍の侵入に遭遇することになる。1925(大正14)年に寿都に生まれた酒本清三さんは、ブリの大豊漁の日に落札価格を見誤って背負った借金を、コウナゴの佃煮と身欠きニシンの製造で返済しつづけた。1928(昭和3)年に黒松内に生まれた安藤昭さんは、若いときには数頭の牛を飼って生活していたのに、機械化が進むと出稼ぎに出ることになった。1929(昭和4)年に台湾に生まれた石橋典子さんは、引き揚げ直前に結婚した夫に寿都に連れてこられ、町に保育園をつくった。1930(昭和5)年に島牧に生まれた竹達敬一さんは村民のテレビ視聴を実現するため、パラボラアンテナを立て、村じゅうにケーブルを引いた。ほかにも、漁業、農業、鉱山労働者、薪炭業、職人、建築業、保健師、看護師、商店主など、私の取材相手の生業(なりわい)は多方面に及ぶ。山も海も平野もある後志ならではの特徴だろう。大平野の農業地帯や産炭地をフィールドに選べば、聞き取れる話の範囲はやや狭まるように思う。
現在の私は厚かましく人に踏み込んでいくが、かつては人見知りがちな性格だった。そんな私を育ててくれたのが、寿都であり、後志であった。いまも新作の構想をいくつか抱いて、私は毎夜パソコンに向かい、休日には取材に歩いている。本が売れようと売れまいと、私の場合は生活がかかっているわけではない。プロのライターに比べれば、気楽な身分である。しかし、売れるということは、自分のやってきたことが認められたということである。売れなければ、認められなかったということだ。プレッシャーはやはり大きい。
取材に応じてくれる人たちや、深い歴史をもつこの土地に恥じない本をこれからも作りつづけていきたい。
お求めは、メール(minamisiribesi●hotmail.co.jp ※●を@に変えてください)で著者に連絡またはAmazonで。一部著作は、紀伊國屋書店道内各店、三省堂書店札幌店、北海道オプショナルツアーズ(札幌市北2西2)、道の駅「みなとま~れ寿都」、道の駅「くろまつない」などで販売。