学芸員の「根室海峡エピソード」コラム~7

根室地方最古の創祀・標津神社にまつわる悲史

根室地域最古の創祀である標津神社

小野哲也(標津町ポー川史跡自然公園学芸員)-text

根室地域でのアイヌと和人の関わりは、江戸時代中期の元禄14(1701)年、松前藩が霧多布に商場を開いて以来、次第に強くなっていきました。安永2(1773)年、松前藩が借金返済の代わりに、エトモ、アッケシ、キイタップ、クナシリの4場所での経営権を飛騨屋久兵衛に委譲すると、根室地域での本格的な漁場開発がはじまります。この飛騨屋によって開設された漁場の社として、天明年間(1781~1789)に創祀された社を起源とするのが、現在の標津神社です。
飛騨屋は松前藩への借金による損失を取り戻すため、当時最新の漁法であった大網漁を導入し、現地のアイヌを労働力に投入することで、生産効率の高い漁場経営を行います。しかしこの時のアイヌに対する扱いは、極めて過酷なものでした。アイヌの冬場の保存食となる鮭まで商品の〆粕原料にして餓死者を出す、妊婦のアイヌ女性を釜に投げ入れようとする、働きの悪いアイヌを薪で打ちつけて殺害するなど、漁場番人らによるアイヌへの非道横暴が、日常的に行われていたのです。この扱いに耐えかねたアイヌの若手リーダーたちが、寛政元(1789)年、武力蜂起します。クナシリ・メナシの戦いと呼ばれるこの事件では、130名のアイヌが蜂起し、国後島と当時メナシと呼ばれた現在の標津町域の漁場の番人ら71名が殺害されています。事件を受け、松前藩は軍隊を根室に派遣し、根室地域のアイヌらも、累々のチャシを築いて迎え撃つ準備を進めていましたが、アイヌと松前藩の軍隊が直接武力衝突することはありませんでした。松前藩が到着する前に、道東のアイヌ有力者12名により事件は収められ、蜂起したアイヌらは根室のノッカマップに集められていたからです。松前藩の根室到着後、事件を主導した若手リーダー39名が、根室のノッカマップで処刑され、事件は収束します。この戦いを収めたアイヌ有力者12名は、その功績を称えられ、松前藩家老で絵師の蠣崎波響により『夷酋列像』と呼ばれる肖像画に描かれました。
クナシリ・メナシの戦いは、「戦い」といいながらも直接的な武力衝突には至っていません。これは、『夷酋列像』に描かれた12名のアイヌが、松前藩に味方したからだといわれています。しかしその背景には、アイヌと松前藩の軍隊が直接衝突し、根室地域のアイヌが根絶やしにされることを避けるため、あえて事件を収めたのではないかともいわれています。事件収束の背景に何があったのか、その本当の理由は定かではありません。しかしこの事件をきっかけに、当時外国とみなされてきた蝦夷地は、次第に日本の「内」に組み入れられていくことになります。北海道の東辺で起きた事件は、蝦夷地内国化に向けた転換点になったと同時に、長きにわたって続いたチャシを中心としたアイヌ社会の終焉を招くことになったのです。