学芸員の「根室海峡エピソード」コラム~9

会津藩標津代官・南摩綱紀

野付半島に残る会津藩士の墓

小野哲也(標津町ポー川史跡自然公園学芸員)-text

毎年8月13日の早朝、野付半島先端に向かう一本道沿いに置かれた墓石に人々が集まります。幕末に当地で活躍した会津藩士の供養祭のためです。江戸時代末期、択捉島とその先のウルップ島の間で、日本とロシアの最初の国境が定められました。この時、根室海峡沿岸の西別川以北は会津藩の領地となり、幕府から国境警備と開拓を任されました。会津藩は藩士とその家族200名規模を蝦夷地に派遣し、標津に本陣を定め、蝦夷地開拓を開始します。野付半島にある会津藩士の墓は、蝦夷地に派遣され、ここで亡くなった藩士の墓石です。
幕末会津藩領時代の標津の様子を描いた屏風が存在します。「標津番屋屏風」と呼ばれるこの屏風絵は、蝦夷地に派遣された会津藩士が、当地の自然資源に触れて感じた蝦夷地の可能性を絵に表現したものです。当時会津藩は京都守護職として、朝廷周辺の警備も担っており、藩主松平容保自身も京都に身を置いていました。屏風絵は、京都にいた藩主に対し、蝦夷地の有望な水産資源と木材資源を活かした新時代構想を伝えるために制作されたと考えられています。

ポー川史跡自然公園に展示されている「標津番屋屏風」のレプリカ

この新時代への計画を主に構想したのは、当時標津代官を務めた会津藩士南摩綱紀であったと推測されています。南摩は漢学、洋学に秀で、保守的な会津藩の中では珍しい先験的な考えを持っており、松浦武四郎とも交友の深い人物でした。南摩は蝦夷地をロシアから守り、開拓を進めていくために、武四郎も望んだ、アイヌと和人が共に開拓に臨む社会の実現を目指します。そこで南摩が行ったのは、当時和人の子弟が用いた教書を、加賀伝蔵にアイヌ語に翻訳させ、このアイヌ語の教書を使っての、和人とアイヌの文化の違いを埋める教育活動でした。
南摩による、アイヌが不利益を受けないための蝦夷地開拓は、戊辰戦争が始まり、会津藩が蝦夷地から撤退したことで頓挫します。しかし会津藩領であったわずか9年の間に、南摩の教えは現地のアイヌの間に深く浸透し、標津のアイヌたちは、南摩の書き留めた「視民如傷(傷ついた人々をいたわるように民をみる)」の書を額に入れ、標津市街にあった会所の壁に掲げ、心の拠り所としたと伝えられています。
また南摩自身もアイヌ文化を深く学んでいたことを知る、一つのコラムが残されています。明治23年6月発行の『日本弘道会叢記』に掲載された、「文明の説」と題するコラムの中で、南摩は文明開化に浮かれる当時の日本人に対し、本当の文明化とは人としての誠実な心を備えた上で、必要な技術や文化を吸収することだと説きます。そしてその誠実な心の例として、蝦夷地で出会ったアイヌの人々の心性に触れるのです。当時文明開化批判を行った人物は多くいますが、そこでアイヌを取り上げたのは南摩ただ一人といわれています。

標津代官を務めた南摩綱紀