創業から現在へ

日本のモノづくりを支える心

寿産業株式会社が製造する様々なローラーガイド。ローラーガイドとは、圧延鋼材を製造するときに加熱炉から出てきた高温の鉄を棒状や異形状に成型する圧延機と呼ばれる二対のロールを持つ設備へ誘導する装置。ほぼ全てが顧客ごと・設備ごとのオーダーメイドの製品で、高い精度と耐久性、多様な仕様を実現する開発力と技術が求められる

明治期、北海道工業の原点となった開拓使工業局の器械場や多くの官営工場が生まれた札幌の創成川の東で、その大きな水脈から湧き出でて、現代の日本のモノづくりを支え続ける会社がある。これも私たちが誇るべきメムの一つ。その誕生から現在までの歩みをお聞きした。
石田美恵-text 黒瀬ミチオ-photo

お客様を愛し、お客様に愛された祖父

札幌市中央区に本社を構える寿産業株式会社は、ローラーガイドを主力に製造販売する特殊部品メーカーである。国内のローラーガイドシェア80%に迫り、日本中のビルや車や橋や、とにかく鉄鋼を使うものの多くが同社のお世話になっている。創業時の源流からひとときも途絶えることなく受け継がれる同社のスピリットをうかがった。
鈴木俊一郎社長は、創業者である故・鈴木俊也さんの孫にあたる。「いつも三つ揃いの背広をビシッと着た格好いい人でした。静かにタバコをくゆらせながら、会社を継いだ父と仕事の話をしている姿を見るのが大好きでした」と少年時代を思い出す。鈴木社長は2019年に本社を改築した際、社長室のとなり、「このビルで一番いい場所」に「創業社長室」を設けた。いまも「じいちゃんがいなければ何もできません」と言わしめる俊也さんとは一体どんな人だったのか。

ときは1945年、日本が戦争の最終局面に向かっていた頃のこと。俊也さんは札幌に本社がある機械工場の東京支店に総務部長、そして営業も兼務する立場で勤務していた。東京に戦禍が及び始めたことを契機に家族とともに札幌へ疎開し、主要取引先だった日本製鐵輪西製鐵所(のちの富士製鐵室蘭製鐵所、現日本製鉄室蘭製鉄所)に毎週欠かさず通っていた。おだやかな人柄で、「鈴木さんこれ頼める?」「鈴木さんこっちもお願い」とあちこちから声がかかり、たちまち頼りにされる存在となった。

終戦と同時に勤め先の機械工場は廃業が決まると、大勢いた職人たちは旋盤やカッターなどの機械を譲り受け、札幌市内にちらばって鉄工所を開いた。ところが事務方の俊也さんは譲り受ける機械がない。さてこれからどうしたものか……。とりあえずお世話になった室蘭に廃業のあいさつに行くと、「取引口座を開設してあげるから、鈴木さんが会社をつくったらいい」と言われた。こうして1951(昭和26)年、国内屈指の巨大製鉄所を取引先として、俊也さんを含め4名で小さな寿産業を創業した。

社長となった俊也さんは、変わらず毎週火曜・金曜に室蘭へ通い(この習慣は現在も続いている)、機械修理などの注文を受けた。札幌に持って帰ってきた図面は、独立した職人仲間に「これできるかい?」「じゃあ材料を買ってくるから○○までに頼んだよ」と次々振り分け、どんな難題にもフル稼働で対応し、きっちりと納期通りに製品を納めた。
やがて修理だけでなく、試験用の新しい機器を作ってくれないか、という相談が増えはじめる。相談は研究所などで使う試験用のものが多く、納品数が必要ないうえ、設計を一から考案しなければならない。時間も手間もかかるため大手工場は「採算が合わない」と断る仕事だったが、俊也さんはいつも快く引き受けた。そしていつしか「寿なら何とかしてくれる」と言われるようになった。

創業翌年の1952年3月、手前右が鈴木俊也さん(写真提供:寿産業株式会社)

代表取締役社長・鈴木俊一郎さん。「僕にとっての祖父はやたらとお小遣いをくれる甘いじいちゃんでしたが、全てはお客様のために、仲間を大事にしながら全力で信頼に応える、という当社のスピリットをまさに地で行く人でした」

新社屋に設けた創業社長の部屋。隣が社長室、手前は応接室

国産初のローラーガイド誕生

1960年代になると、俊也さんの長男で二代目社長となる鈴木俊幸さん(現会長)も入社し、会社は大きな発展の時代を迎える。そのきっかけは1963(昭和38)年、室蘭製鐵所からの「作ってほしい機械がある」という開発要請だった。
当時室蘭製鐵所で新しくステンレスの圧延製品を作ることになったのだが、従来の鋳物で鋼材を抑える方式では、柔らかいステンレスに擦りキズや焼き付きが生じてしまうことが分かった。「ローラーガイドという新方式の機械を導入しよう」となったが、当時はスウェーデンからの輸入品しかなく、高価なうえに細かな仕様変更ができず、数台導入したものの常時使用は難しかった。そこで「困ったときの寿」に白羽の矢が立ち、価格を抑えた新しいローラーガイドの共同開発プロジェクトがスタートしたのである。
このときの一番の課題は、スウェーデン製品の特許に抵触しないよう、完全オリジナルの技術で製品をつくることだった。スウェーデン製品の特許明細書を徹底的に分析し、くる日もくる日も室蘭に足を運んで協議を重ね、改良を重ねて1963(昭和38)年に国産初のローラーガイドが完成した。その出来映えは上々で、室蘭製鐵所は無事ステンレス圧延製造を成功させ、その後は釜石製鐵所や大阪製鐵(現合同製鐵)などからも注文を受けた。

当時の室蘭製鐵所の担当者からは、「共同開発したのだから一緒に実用新案を取ろう」と提案があった。さらに「日本の製鉄所はみんな困っているのだから、他社にも売ってよい」という許諾までもらった。これまで同社が積み上げてきた信頼が、確かな形になった。こうして「寿のローラーガイド」は国内の鉄鋼業界で広く採用されるようになる。
この頃営業を担当していた俊幸さんは、商学部卒だったため「自分で図面が読めない」という弱点を痛感、夜学の工学院大学専門学校に通って機械工学の知識を身につけ、さらに営業力に磨きをかけた。全国に営業所を開設してローラーガイドの販路を拡大、1982年に自社直営工場を増築し東南アジアやアメリカなどの製鉄所とも取引を開始していく。

会社が急成長した要因の一つを鈴木社長はこう説明してくれた。
「私たちは、ローラーガイドを製造販売していますが、機械を売る会社ではありません。お客様が困っていることを解決するのが仕事で、機械はその手段の一つです。自分たちが努力して解決できるなら、どんなことでもやろう、というのが創業の原点。祖父は常に『できません』と言わない人でした。そのバトンを受けとった父も、日本中世界中を飛び回ってそれを実践してきたんだと思います」

1965年、開発当初の圧延用ローラーガイド「K90E」(以下写真3点提供:寿産業株式会社)

1965年ころの本社社屋

1967年、初の自社工場・発寒工場着工

自分だけの経験を武器にして

鈴木社長は2001年に寿産業に入社し、2018年代表取締役社長に就任した。入社前に3年ほど、取引先の一つである鉄鋼メーカーに勤め、製鉄所の圧延作業部門で働いた。当初同僚たちからは「どうせすぐ辞めるやろ」と冷ややかな目で見られていたが、最後は盛大な送別会で別れを惜しんでくれたという。
「入ったのは大阪の中堅メーカーで、釜に原料を入れて製品にするまで一気通貫で見通せるところでした。自社のローラーガイドがどんな風に使われているか、現場で何が起こるのか、何を大事にすればいいのか。札幌から来た何も知らないボンボンの自分が放り込まれて、本当にいろいろなことを実感しました。あの頃がなかったら、今の自分はないと思います」

製鉄所での経験は、祖父にも父にも、社員の誰にもなかった。何度も火傷しながら熱い鋼材を扱い、鉄鋼製品をつくり、ローラーガイドの分解整備も当たり前にできるようになった。そこで鈴木社長が得たものは、製鉄の専門技術や知識よりも「現場を一番大事にする」という考え方だった。最終的に製品を形にするのは現場であり、そこで働く人たちが働きやすい状況をつくることが、ゼロから起業した祖父と、基盤を必死に広げた父のあとを継ぐ自分の使命であると思った。

その手はじめとして、社長就任と同時に工場の休憩所や水道設備などを一新した。社員から「機械設備を更新したい」と要望があれば、基本的にノーとは言わない。「かれらが熟考した結果ですから、やったほうがいいに決まっています」と全幅の信頼を寄せる。
また、総務部長になった10年ほど前から、毎年社員へ膨大な数の表彰を続けている。元からあった営業所三部門(粗利・売上・受注)への表彰に加え、最優秀新人賞、最優秀社員賞……さまざまな名目をつけ、ガラス製の賞状と賞金を手渡す。どんな小さな貢献に対しても、「きちんと評価していることを伝えたいから」という。全社員に目標達成賞の金一封を配った年もあった。もちろんこれは利益還元のボーナスとは別。

社内の環境整備とともに、危機管理にも力を入れてきた。東日本大震災を機に相互補完する自社サーバーを本州の営業所にも設置するなど体制を強化していたことが、胆振東部地震の際に大きく役立った。また、2020年のコロナ禍では周囲の経営者たちが二の足を踏むなか、いち早く環境を整えて設計や購買、営業など、可能な部署から順次リモートワークを開始。全国7カ所にある営業所では、以前からオンライン会議を実施していたので移行もスムーズだった。
「会社の手柄は社員のもの、失敗は社長の責任」と言う鈴木社長は、社員が力を発揮できる環境をつくり、お客様が利益を上げられるために、できることは何でも実行する。

現在寿産業にはローラーガイドを中心とする鉄鋼関連部門と、抗菌性特殊ニッケル合金粉末からなる自社製品「クレピアパウダー」を中心とする環境関連部門があり、さらに新しい分野にも目標を定めている。4名だった社員は約70名に増え、事業内容は大きく広がった。それでも、創業から70年、大切にしてきた原点は変わらない。鈴木社長がこう話してくれた。
「取引先のお客様が異動する際、引き継ぎ項目に『困ったら寿さんに電話』とありました。こんな名誉なことはありません」

さまざまな機械設備が整然と並ぶ発寒工場内

巨大な設備を使いながらも緻密な手作業が続く

機械1台を扱うのは航空機を操縦するようなもの。「只今の機長」という名札が見える

大型機械を導入したときは社員が集まって記念写真を撮る

最後は各部品を美しく塗装して組み立てていく

完成したばかりのローラーガイド

修理を待つローラーガイド部品。全国各地の製鉄所から修理の依頼が絶えない

寿産業株式会社
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