水のまち札幌と白野夏雲

かつては自然の湧水地だった北海道庁の池は、札幌都心の代表的なメムの跡

コロナ禍が、世界を深みから変容させている。社会のすみずみにITが浸透するデジタル・トランスフォーメーションの加速にとどまらず、私たちはこの災いを、のちに文明の転換と呼ぶかもしれない。カイは、軸足を置く札幌を改めて歩くことにした。道都の成り立ちを、「水脈」というキーワードから考え直してみたい。
谷口雅春-text 露口啓二-photo

伏籠川が豊平川だった時代

札幌は、太古暴れ川だった豊平川が奔放に広げてきた扇状地に拓かれた都市だ。だから現在でもコンクリートの地面の地下深くには、根茎のようにはりめぐらされた水脈が生きている。目に見えない水の鼓動に、いまも残る泉(アイヌ語で「メム」)の跡から耳を澄ませてみよう。

和人のまちづくりをゼロから始めるために、開拓使判官、旧佐賀藩士の島義勇(しまよしたけ)が開拓の三神を奉じて札幌本府(事業の本部)の設営に着手したのは、1869(明治2)年11月。原生林が埋め尽くすこの大地には豊平川を軸に幾筋もの流れが石狩川に向けて下り、扇状地の周縁にたくさんの泉を湧かせていた。
豊平川の枝流を使って引いた人工河川である創成川の上流は、鴨々川(かもかもがわ)と呼ばれる。この一帯ではいまでもまだかすかに、かつての札幌の水系の片鱗が想像できるかもしれない。鴨々の語源は、アイヌ語でサケをとる曲げわっぱを意味するカモカモとか、碁盤の目状の街区の参考にした京都の鴨川にちなむなど、いくつもの説があってはっきりしない。でも明治20年代の札幌神社(現・北海道神宮)の宮司で、北海道をめぐる幅広い知見を持っていた白野夏雲(しらのかうん)の説はあまり知られていないようだ。白野は、鴨々の語源はアイヌ語のカムイであると考えた。

札幌コンサートホールの裏手を流れる現在の鴨々川。かつて一帯には川から水を引いた庭園を抱く屋敷もあったが、現在はマンションが並ぶ

カムイは神という意味のほかに、畏怖すべき恐ろしいモノや場所をさす言葉でもある。いまの豊平川はコンクリートで入念に固められているが、かつて鴨々川とその本流である豊平川が分かれるエリアは、ときに激しい流れが暴れまわる土地だった。豊平川の奔流のさまは、江戸時代の記録からもうかがえる。
時代背景からスケッチすると、1780年代半ばから幕府は、数度にわたって樺太や千島を含めて蝦夷地の調査を進めていた。そして1792(寛政4)年。ロシアの陸軍中尉アダム・ラクスマンが根室に来航して、北方の脅威が急速に現実のものとなる。幕府は1799(寛政11)年に東蝦夷地(蝦夷地の太平洋側)の直轄に踏み切ったが、なおも1804(文化元年)には、ロシアの外交官ニコライ・レザノフが交易を求めて長崎に来航。その翌年、幕府目付遠山景晋(かげくに)と勘定吟味役村垣定行らは、西蝦夷地(蝦夷地の日本海側)の調査に入った。彼らはその報告書(「西蝦夷日記」)で現在の札幌の土地にふれて、1801年ころ豊平川に巨大な洪水が起こり、それまで津石狩(ツイシカリ)川と呼ばれていたところへと流路が大きく変わったと書いている。

「(津石狩川は)近年迄は小川に御座候処四五年以前大水にてサッポロ川上に切所出来
其後ツイシカリ水深 船通路自由の川に罷成候由(まかりなりそうろうよし)…」

札幌市内を流れる豊平川がいまの川筋になったのは、ロシアの圧力が幕府首脳に危惧されるようになった時代のこの洪水のせいで、西側に取り残されたかつての河道をアイヌはフシコ・ペッ(古い・川)、フシコ・サッポロ(古い札幌川)などと呼び、明治になって伏籠川の字が当てられた。往時の地図を見れば、本流から切られた伏籠川の源流はいまの北1条西3丁目付近のメム(泉地)になっている。豊平川扇状地の先端近くだ。
伏籠川にもまた治水工事が繰り返され、いまでは明治の姿がまったく想像できない。しかし札幌の中心部に先駆けて1870(明治3)年に苗穂や丘珠に庄内地方から最初の移民団が入ったのは、この川沿いの沃地をめがけてのことだった。

丘珠町(札幌市東区)を細々と北上する現在の伏籠川。明治初頭の丘珠村は、原野を奔放に縫うこの川を軸にした開墾地だった

現在の豊平川や鴨々川の姿から地名の由来を考えることはとてもできない。けれども豊平の語源は、アイヌ語で「トゥイェ・ピラ(崩れた崖)」。強い流れで削られた川岸のことだ。だから江戸期までのこの水系をたくましく想像すれば、鴨々はカムイ、という白野夏雲の説には一定の説得力がある。

白野夏雲の大きな旅

島義勇が、和人の定住者が二戸しかいない原生林に入ってからまだ30年も経っていない1897(明治30)年。森を拓いた札幌の人口は3万5千人にふくらんでいた(最初の二家族とは、箱館奉行所の石狩役所が豊平川の渡し守として配置した志村鉄一と吉田茂八の家族)。道内外から北海道内陸部への投資を呼ぶ北海道国有未開地処分法が発布されたこの年、札幌史学会が『札幌沿革史』を出版している。まちの成り立ちと発展のあゆみをまとめた、北海道で最初期の地誌の取り組みだ。地理の節の草案を書いたのは、すでに最晩年にあった白野夏雲だった。

柳田国男は1934(昭和9)年の南島をめぐる文章「島の三大旅行家」で、植物学・民俗学の田代安定、探検家の笹森儀助と並べて、白野夏雲を取り上げている。まず、夏の青空に白い雲が清冽に浮かんでいるようなこの名前にふれて曰く、(白野の)「孤行遠遊を愛した性情は、自ら此四文字の上にも表はれて居るのである」。
柳田が見すえたのは、鹿児島県庁で勧業係として働いた50代の白野像だ。しかし「孤行遠遊」の人である白野が資質を一気に開花させたのは、40代でやってきた北海道だった。
1911(明治44)年の「歴史地理(17巻6号)」には、国語学者亀田次郎の白野論が載っている。そこで亀田は白野を「隠れたるアイヌ語研究の先覚者」と位置づけ、「白野夏雲の生涯ほど多様なものはない」と述べている。

白野夏雲のひ孫である白野仁による評伝『白野夏雲』などをもとに、夏雲の驚くべき半生の大枠を書き起こしてみよう。
幕府直轄領だった時代の甲斐国白野村に生まれた白野夏雲(1827-1899)は、本名今泉耕作。父は左官だった。学問所で学ぶと向学心が認められて、のちの外国奉行岩瀬忠震(ただなり)に見出され、江戸に出て岩瀬と起居をともにすることになる。黒船来航で江戸が騒然とする日々。岩瀬は幕府の外交現場の先頭でめざましい働きをしたが、老中井伊直弼と対立して左遷され、失意の中で病死してしまった。やがて戊辰の戦いが起こり、徳川の世が終わりを告げる。40代になっていた夏雲は江戸での最後の戦い上野戦争(1868年7月)をくぐり抜け、旧幕臣として静岡藩に居場所を得た。

開拓事業がはじまった当初開拓使は、広すぎる北海道を諸藩に分領させる。広大な十勝エリアを指定されたのが静岡藩だった。そして1870(明治3)年の夏。夏雲は、藩の十勝開業方の在勤主任としてわずかな部下を連れて十勝調査に入る。一行は十勝川河口の大津を拠点に、アイヌに助けられながら十勝川流域に分け入り、なんと冬をも越して、和人が踏み入ったことのない奥地までを踏査。地形や水系から気象条件、鉱物資源、動植物、開墾の可能性などを調べた。
夏雲はひとりでも各地のコタンに泊まり込んでアイヌの風習や言葉を深く学び、報告書(『十勝州略志説』)をまとめる。
しかし時代は急転。廃藩置県で全国の藩が解体されて県に統合されると居場所を失い、1872(明治5)年の春には、キャリアを買われて開拓使に招かれた。鉱物資源や物産の調査、勧業にあたるが、戊辰戦での仇敵である薩摩閥が権勢をふるう組織になじめず、辞職。浪人ののち、今度は東京で内務省に採用される。山林課や地理課、地質課、内国勧業博覧会の仕事で全国各地を巡った。ほどなく開拓使時代の上司で鹿児島県令だった岩村通俊に請われ、1879(明治12)年には怨敵の鹿児島県庁へ。勧業係として県内のすみずみをまわって特産品の開発と販売に取り組んだ。次の県令渡辺千秋のもとでは、南海魚類の調査で魚類図鑑(「麑海(げいかい)魚譜」)をまとめたり、トカラ列島の十島村の地誌「十島図譜」などを編纂して高い評価を得る。柳田国男が讃えたのはこの時代の夏雲だ。

1884(明治17)年。すでに58歳になっていた夏雲は東京に戻り、農商務省の地質調査所勤務となった。若い同僚たちに刺激を受けながら、彼は青年時代から手がけていた鉱物学の世界をさらに探求した。
そして1886(明治19)年夏。北海道庁が発足すると夏雲は13年ぶりに札幌に戻り道庁勤めとなる。ここではアイヌ語地名取調などになり、古老の聞き書きなどにも取り組んだ。同僚には、のちに『北海道蝦夷語地名解』で知られるアイヌ語研究者永田方正がいた。
4年後、夏雲は第6代の札幌神社(現・北海道神宮)の宮司を拝命。この時代の札幌神社はまだ小規模な社殿だったがその内外が傷み、中心部から遠いこともあって訪れる人もまれだった。社格も官幣小社で、夏雲は、北海道総鎮守でありながら官幣小社であることに義憤を抱き、新潟の三条から神楽を導入して神楽講を組織したり、境内の整備に努める。創社30年となる1899(明治32)年には、ついに官幣大社へと昇格させた。そして、大きな仕事をなしえて満たされたように、この年の秋に73年の波乱の生涯を閉じたのだった。

札幌神社(現・北海道神宮)宮司時代の白野夏雲(白野仁『白野夏雲』より)

水脈、そして文脈を求める札幌探求へ

物理学者武谷三男(1911-2000)がとなえた認識の三段階論は、科学的認識は現象論、実体論、本質論の三段階を経て発展するというものだった。「札幌の水脈」というテーマは、いま起こっているさまざまな現象の中に実体をさぐり、さらにそこから「札幌の本質」を問いながらめぐる旅でもある。

水脈をシンプルに人脈と読み換えても、白野夏雲の人生には近代の北海道をめぐる濃密な人間模様が織り込まれている。少年夏雲を見出した俊英岩瀬忠震(ただなり)は幕府の初代外国奉行を務めたが(1858・安政5年)、この職を共に担ったのは、かつて榎本武揚らとともに蝦夷地を調査してから箱館奉行となった堀利煕(としひろ)であり、のちに榎本と共に箱館戦争を戦う永井尚志(なおゆき)らだった。明治になって永井は、白野と同時期に開拓使に勤めることにもなる。夏雲の少年時代には、あらかじめ北海道との縁が縫い込まれていた。あるいは、日本の近代の幕開けに、この島がそれだけアクチュアルな磁場であったというべきだろうか。
また東京時代の夏雲を鹿児島に呼んだ、開拓使での上司岩村通俊は初代の北海道庁長官となって再び夏雲を北に呼び寄せ、同じく大きな仕事を任せた鹿児島県令渡辺千秋も北に向い、屯田兵の父永山武四郎のあと第三代の道庁長官となっている。
維新の負け組となった旧幕臣である夏雲が勝ち組の薩摩人たちと仕事をこなし、さらに晩年には、同じ勝ち組である佐賀の島義勇らの手で創建された札幌神社の中興の祖となった。歴史を編むのは、こうした皮肉や矛盾に満ちた、とても複雑な出来事の連鎖と展開だ。

札幌の歴史文化は、すでに織り上がったものとして史料や書物の中に収まっているのではない。水脈を歴史の文脈と読み換えれば、それはいつも、正確なファクトであることを前提に、終わることのない生成として現在の僕たちとの関わりを待っているのだ。
「札幌の水脈」という主題の上にこれから展開されていく特集記事群は、いま見える札幌の動きからまちの実体をさぐり、何ものかを生み出そうとしているその運動の渦中に、あらためて札幌の本質を探っていく試みになるはずだ。

 

札幌のメムの記憶(撮影:露口啓二)

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