「簡単に言うと、1頭の女鹿子を3頭の男鹿子が奪い合い、白鹿子(しらさぎ)と呼ばれる長老の鹿子が争いをなだめるストーリーです」
五勝手鹿子舞の内容をざっくり教えてくれたのは、保存会のメンバー竹内強さん。
実際に江差町郷土資料館のYouTubeチャンネルで公開されている五勝手鹿子舞の映像を見てみると、3頭の男鹿子が女鹿子をめぐって激しく格闘する様子は、確かに力強くて男らしい。白いたてがみを振り乱しながら跳ねる様子はエネルギッシュで、どこかエロティックな印象も受ける。
「腰を落として、頭の動かし方で角を思い切り振っているように見せることができれば、『ああ、いい鹿子だ』と褒められる。眼鏡なんてつけたままではできないよ、飛んじゃうくらい激しいから」
頭を勢いよく動かすたびに、白いたてがみがバサバサとちぎれて飛ぶ様子は、勇壮そのものだ。
踊り手の鹿子5人のほかに、親父と呼ばれる歌い手、大傘(だいがさ)持ち、太鼓、ササラ、茶釜、笛と、最低でも13人のメンバーが欠かせない。踊りを引っ張るのは太鼓のリズムだ。
「太鼓がのってくればテンポがどんどん速くなる。踊りながら太鼓に『はえぇ、はえぇ』って声かけるんだけど、音出してるもんだから聞こえないんだよね」
竹内さんはどの役でも踊れるそうだが、動きの少ない女鹿子と長老の白鹿子は年配者が、男鹿子の3頭は若い世代が踊る場合が多いという。
毎年、ゴールデンウィークに江差追分会館のステージで実演するほか、地元の柏森神社の例祭で踊りを奉納する。以前は依頼を受けて結婚式や家の新築時などに披露したこともあったという。
五勝手鹿子舞は、かつて五勝手村といわれた江差町南部の柏町や南浜町に伝わる民俗芸能である。
『江差町史』(昭和58年発行)には「ヒノキアスナロの伐採にあたった杣夫によって、山神を中心とする信仰と結合して発生したもの」と記されているが、古い文献の記述は一貫していない。
江差町教育委員会の学芸員、宮原浩さんによると、そもそも「ししまい」は、お正月によく見る獅子舞のように、2人以上で1匹の獅子を動かす「二人立獅子舞」と、1人の演者が1匹の獅子を演じる「一人立獅子舞」の二系統があり、全く別物。一人立獅子舞は東日本にのみ分布し、西日本には見あたらないという。
「一人立の獅子が複数頭で踊る獅子舞は、北海道では渡島半島の西側、上ノ国、江差、厚沢部、乙部だけに伝わります。文献資料では遅くとも18世紀末には伝わっていたことが分かりますが、時期は明らかではありません。五勝手鹿子舞の由来にも諸説あり、江戸時代に杣夫(そまふ=木こり)によって始まったという言い伝えもあれば、15世紀の源氏の末裔の狩人を起源とする説もある。津軽にも同じような芸能が残っていることを考えると、杣夫から伝わったのかもしれませんが、いずれにしても、それぞれの地域で土地の歴史や文化、生業に結びつけた由来をつけていったのだと思います」
なぜ「獅子舞」ではなく「鹿子舞」と書くのかもはっきりしない。
「江差でも江戸時代の古い文献は獅子舞や獅子踊と記してある。いつのまにか鹿の字を当てるようになったようです。私たちはどうしても正解を探りたくなりますが、昔の人はそんなこと深く考えてなかったんじゃないかな」
すっきり納得できず首をひねる私に、宮原さんはこう解説してくれた。
「よさこいソーランが札幌で始まって全道各地に広まったのと同じことですよ。鹿の踊りがカッコいいと広まって、それぞれの集落で行われるようになったんじゃないでしょうかね」
なるほど。由緒正しく始まったわけではなく、当時の流行だったんだと思えば、にわかに実感がわいた。
少なくとも200年以上続いてきた五勝手鹿子舞。歌詞や構成は時代とともに変化している。
「人が変われば当然、踊り方も変わる。歌も西洋音楽のようにキチンと音符で表されている訳ではないので、人によって変わる。歌詞も今でこそ活字になっているけれど、昔は耳で聴いたまま、訛りも含めて真似したわけだから、意味がよく分からない部分もある」と宮原さん。
横で竹内さんも深くうなずく。
「『島のぼくどに駒ケ岳よ』っていう歌詞があるんだけど、ぼくどってなんだべな、って」
けれど、そうした疑問は「分からないままでいい」と宮原さんは言う。
つじつまを合わせようとすると、変化が起きる。正しさを求めるより大切なのは、地域で伝承されている、ということなのだろう。
昔は「おかしこ」と呼ばれるひょっとこのお面をつけた踊り手が登場して、鹿子の前で踊る場面もあったというが、五勝手鹿子舞では消えて、同じ江差町内の田沢鹿子舞ではまだ残っている。踊れる人がいなくなったのか、時間を短縮しようとして消えたのかは分からない。
「無形文化財は変化することが前提となっているんです」と宮原さん。時代の要請や地域の実情にあわせて少しずつ変わりながら、それでも続けられているということがなにより価値あることだ。
現在、五勝手鹿子舞保存会のメンバーは20数名。高校1年生から80代まで幅広い世代が所属している。
毎年2月には後継者育成事業として地域の小学生に声を掛け、ゴールデンウィークに江差追分会館で行う実演まで、週に2回、地域の会館で練習するのが恒例だ。竹内さん自身、小学3年で初めて参加して、以降ずっと続けている。
「小さいときは夜遅くまで友だちと遊べるのが楽しかった。鹿子舞が好きで好きで、というわけではなかったんだよね。練習が終わったらお菓子が出るし、横では大人たちが酒飲んだりしてるんだけど、そういう集まりが楽しかったんだなって思うね」
だから今も子どもたちに教えるときはお菓子やジュースを用意して、1時間練習したら2時間遊ぶようなスタイル。楽しいから途中で辞める子はほとんどいない。それでも中学生になり部活に入ると継続が難しくなり、高校を卒業すると地元に残る子が少ないため、担い手が育たないのが悩みの種だ。まして、コロナ禍のここ3年は練習も実演もすべてストップしている。これからどのように保存伝承していくか、課題は大きい。
旧五勝手地域には、鹿子舞のほかにも、江差沖揚音頭、江差鮫踊りという郷土芸能があり、それぞれに保存会が組織されている。
「保存会っていっても堅苦しい感じじゃなくて。地域の人で集まってカラオケするような感覚かな」と竹内さん。
保存伝承というと、昔からのしきたりや厳しい稽古を思い浮かべてしまうが、竹内さんの話を聞くと、もっとフランクで楽しい交流のようだ。
「江差で地域の団結力が強いのは、姥神大神宮のお祭りがあるからじゃないのかね。五勝手地域は五勝手義公山(ぎこうさん)という山車で巡行するんだけど、そのつながりが強くて、そのまま消防団や民俗芸能の保存会に入ったりする。地域のコミュニティが維持できているのは、祭りの影響が大きいのかなと、個人的には思っています」
お祭りを核に町内会的なつながりが強まり、結果、地域の芸能や防災組織の維持にもつながる。そんな幸せな連鎖が江差にはまだ色濃く残っているらしい。
江差町内には五勝手鹿子舞のほかにも、集落ごとに江差鹿子舞、田沢鹿子舞、土場(どんば)鹿子舞などがあり、登場する鹿子が5頭だったり3頭だったり違いはあるものの、それぞれ長い歴史を紡いできた。
しかし、少子高齢化や人口流出など保存伝承の環境は厳しく、そのうち江差鹿子舞は既に途絶えてしまったという。
もっと行政が支援するなり予算つけたりできないものだろうか。そう口にすると、竹内さんは即座に否定した。
「僕は逆に、予算つけると地域に残らないような気がするんです。今までずっと自分たちの会費や出演料の中で活動してきた。町に補助金とかを要望したりすると、お金のためにやるようなことになっちゃって、続かないんじゃないかな」
実は竹内さん、町民福祉課長として働く役場の職員でもある。
「うちの保存会のメンバーは、金やるから○○してくれとか行政に言われたら『やらね』っていう天邪鬼(あまのじゃく)が多い気がするな(笑)。なんでオレらが行政の言うこと聞かないばダメなんだって。行政に頼らない、依存しない保存会活動が必要だと思うんだよね」
ステージで披露するために続けているわけではない。根幹にあるのは地域の仲間で集まって楽しむことだからだ。
「実際、イベントに出てほしいと言われても難しいんだよ。役場の職員なら休みがとれても、農業や漁業の人はそんなことで休めないべ」
それは学芸員の宮原さんも同意見だ。
「予算って何に使いますかね。だいたいが発表会やりましょう、記録に残しましょうとかに使われる。しかも発表会なんかは、本来もっと長いのに20分で終わらせてくださいとか、保存の目的と変わってくる。普段の活動が楽しくなるようなお金の使い方にならないんですよ」
言われてみたら、その通りだ。すぐに行政の支援を持ち出す発想こそ恥じなければならないと思った。
江差に伝わる各地域の鹿子舞は、音色の違いで「あれは五勝手だな」と判断がつくものの、よその鹿子舞を見に行ったりするような積極的な交流はないという。
「郷土芸能にとって相対化は意味がないんですよ。オレんとこが一番という絶対的なものだから。それでいいと思うんですよね」と宮原さん。
そういう宮原さんも江差町字柳崎の集落に伝承されている、土場鹿子舞の保存会のメンバーのひとりとして活動している。
「私自身は東京生まれですけど、カミさんの親父さんが保存会の会長をやっていたんで、30代後半から始めました」
土場鹿子舞は五勝手鹿子舞と違い、登場する鹿子が3頭。宮原さんは笛を担当する。
「地元の柳崎八幡神社の宵宮祭で踊るのがメインです。追分会館で披露するのはついでというか、オマケですね」
60代以上のメンバーが圧倒的に多く、若年層が少ないのが不安要素。伝承が途切れることのないようにと、自分の子や孫を小さいうちから引き込む会員も少なくない。
しっかりしたコミュニティがあるから郷土芸能が守られているのか、郷土芸能があるから共同体のつながりが強いのか。それは分からないけれど、地域に郷土の芸能を楽しむ文化が浸透しているのはうらやましい。交流が濃密なぶん面倒なつきあいやいざこざもあるに違いないが、それでもうらやましく思うのは、私が土地と切り離されて心許なく暮らしているせいかもしれない。