明治から大正、昭和。日々の暮らしの楽しみを知る―旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)

旧黒岩家住宅の内部。建物全体は和式だが屋根組みは「キングポスト・トラス」と呼ばれる西洋式の構造で、道内でいち早く取り入れられたもの

1871(明治4)年に札幌から定山渓を経て有珠に通じる「本願寺道路」が完成した翌年、往来する旅人のため簾舞(みすまい)に通行屋が建てられた。屋守を命じられたのが黒岩清五郎さん一家。いまは四代目の黒岩裕(ゆたか)さんが市の文化財、地域の資料館として守り伝えている。
石田美恵-text 伊藤留美子-photo

簾舞の夜明けと通行屋

札幌市南部、定山渓へ向かう手前に位置する簾舞地区に、明治の風情を残す大きな家屋が建っている。春は桜、秋は紅葉が美しく、周囲の自然にとけこむように佇むその姿は、気をつけていないと通り過ぎてしまうかもしれない。
しかし、一歩なかに入ると明治初期に造られた頑丈そうな構造や、長い縁側のある客間、林業と農業で栄えた生活の道具、定山渓鉄道のお宝などなど、簾舞の歴史時間がギュっと凝縮された展示に魅了される。
そして何より黒岩家の四代目・裕さんが聞かせてくださる説明が面白い。昔の出来事がまるで先日のことのようにリアルに迫り来る。

簾舞通行屋の始まりから簡単にたどってみよう。
1869(明治2)年、開拓使が本府を札幌に決めたころ、札幌と有珠とを結ぶ道路開削の計画がもちあがっていた。この経路は松浦武四郎らが北海道の重要幹線であると進言していたが、巨額の費用がかかるため開拓使は手をつけかねていた。そうしたなか、東本願寺が政府に北海道開拓を願い出て許可がおり、1870(明治3)年7月に新道開削の工事に着手する。翌年10月には尾去別(現伊達市)から札幌平岸まで全長104kmの道路を完成させ、「本願寺道路」と呼ばれるようになった。
道路開通にともない、開拓使は要所となるミソマップ(現簾舞)に、旅人のための宿泊・休息所を建設。これが簾舞通行屋である。このとき函館奉行所の命で道南にいた黒岩清五郎さんが開拓使より特命を受け、妻ヤエさん、長男の嘉吉さんとともに簾舞初の定住者となった。そのころ周囲は一軒の家もなく、ニレやヤチダモの巨木がおい茂り、オオカミやヒグマが徘徊し、冬は一面雪に閉ざされる未開の地だった。

裕さん曰く、「こんなクマがたくさんいる場所に、家族3人でよく入ったもんだと思います。でもうちの先代ばかりではなく、当時北海道に来た人たちはみんな二度と故郷には帰らない、新しい土地でひと旗揚げよう、という気構えが強かったのでしょう。私はいつも『ご先祖様に生かしてもらっている』と思っています」

その後、1873(明治6)年に千歳を経て室蘭に至る「札幌本道」(現国道36号)が完成すると、本願寺道路を利用する人は次第に減った。それでも清五郎さんは通行屋守のかたわら、本願寺道路を利用する役人の接待と簾舞の開墾に力を注いだ。冬に原生林の木々を伐採し、夏に鍬をふるって耕した土地は畑となり、雑穀や野菜がとれるようになった。
1884(明治17)年に通行屋は廃止となるが、黒岩家は自前で宿屋を経営しながら農業を続けた。さらに3年後、定山渓に通じる新道(現国道230号)が開通すると、建物をもとあった場所から少し北へ移築し、居室、土間、馬小屋などを増築してほぼ現在の姿となった。

現在旧黒岩家住宅を管理し、見学者に簾舞の歴史を話してくださる館長の黒岩裕さん。1980年代まではこの建物で生活していた

明治初期に本願寺道路を往来する人が休んだ部屋がそのままに残る。その後、林野局の事務所や私設教育所(簾舞小学校の前身)、月寒歩兵25連隊の休憩所、豊平町役場官吏の出張所などとしても利用された

1907(明治40)年に撮影された、現在残るもっとも古い写真。このころは住む人も増え、家族と親族、近所の人、飼っていた牛と馬が写っている

ヒグマ、ヤマドリ、ウサギの話

かつての簾舞といえば、特産のりんご、白川の結核療養所、そしてクマが代名詞だった。裕さんが話してくれるクマと遭遇した人たちの話がすごかった。
「このおじさんは営林署の担当官で、とても勇敢な人でした。仕事中に森で大きなクマと鉢合わせし、担当官も驚いたけれどクマも驚いた。それでクマが襲い掛かってメガネのフレームが吹っ飛び、目に少し傷がついたそうです。持っていたマサカリでクマの眉間を一撃、クマは慌てて立ち去りました。手負いのクマは戻ってくる習性があるので、翌日近所の人が討伐隊を結成して森に行くことになり、担当官も参加して―普通はしないですよね。ケガもして、みんなで止めたんですが聞かなかったそうです―そこへ昨日のクマが出てきて、鉄砲で撃たれて絶命しました。
また別のおじさんは私もよく知っている勝ち気な人で、お寺の近くで薪を切っていた時にクマに出くわし、とっさにマサカリを振り上げたそうです。でも場所が悪く空振りしてしまい、クマに組み伏せられて左のおしりをガブっと食われてしまった。すぐ簾舞にあった病院に運ばれ、応急処置をしてから定山渓鉄道で札幌の病院へ行って緊急手術をしてもらい、45日ほどで無事退院できました。その後は郵便局で元気に働いていました。
簾舞はクマがいるのが当たり前の土地ですから、私も子どものころはクマを見つけても、遠くならそっと見て見ぬふりでした。そうしてクマと共存しないと生活できなかったんですね」

1946(昭和21)年生まれの裕さんにはこんな思い出もある。
「私の父も鉄砲を持っていて、クマ打ちもしましたが、ほかの獲物を狙うことが多かった。『今日は山へ行ってくる』という時はお土産が二つあって、一つはヤマドリです。それを獲った日の晩ごはんはご馳走で、鳥肉の入ったおそばになりました。私は小さいころそばが好きじゃなかったのですが、この汁だけは美味しくて飲んだ記憶があります。もう一つはエゾウサギで、その日のごはんはカレーライスと決まっていました。
いま考えると、当時はいろいろな物がなくて不自由しましたが、すごく楽しかったと思います。家族や近所の人たち、みんなで何でも分け合って助け合って暮らしていました」

当時の暮らしを再現した展示には、たくさんの写真が並んでいる

簾舞の代名詞、ヒグマのはく製。こちらはまだ幼獣

客間に敷かれたクマの毛皮は体長約2.5mの成獣

1949(昭和24)年ころ、薪ストーブを囲む黒岩家の人々。中央で抱かれているのが9人きょうだいの末っ子の裕さん。「ストーブの部屋だけが暖かく、ほかはシベリアでした」

まちの文化財として

1981(昭和56)年、黒岩家は建物の老朽化により生活の維持が難しくなり、隣に新しい住居を建てることにした。同時に札幌市教育委員会に建物を文化財として保存できないか、町内会の人たちとともに相談し、本格的な調査や申請が行われ、建物の旧棟部分が正式に市指定有形文化財となる。建物と土地は市に寄付され、1984(昭和59)年〜1985年には建物の全解体調査と復元工事が行われた。
また、新棟部分も明治時代の農家の暮らしを知る上で貴重なものであり、札幌市の郷土資料館として保存されることになった。さて、旧棟と合わせて復元工事は終えたものの、資料館としてふさわしい物品を収集し、それぞれに説明などをつけ、展示を整えなければならない。そのため、裕さんをはじめ簾舞の住民有志によって「札幌市有形文化財旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)保存会」が結成され、様々な作業が行われた。
「展示資料は地元の先輩がたが集まって、ほとんど手作りしてくれました。毛布丹前を3枚使って、実物大の馬のぬいぐるみを作ったり、何でも自作する力はすごいです。今はもうできないかもしれない」と裕さん。また、資料館の大きな目玉として定山渓鉄道に関連した展示品も見逃せない。なかでも目立つのが、かつて簾舞駅と滝の沢駅で使われていた「タブレット閉塞機」という貴重な機械である。地元の温泉宿に保管されていたものを保存会のメンバーが見つけ、「資料館に寄贈してくれないかい?」と相談したところ、快諾してもらった。
「ここには地域の子どもたちが郷土学習の時間に来たり、ちょっと暇になったお父さんが奥さんと一緒にドライブのついでに寄ったり、簾舞にセカンドハウスを持った人が興味を持って来てくれたり、いろいろな人がやって来ます。これからも保存会の皆さんと、楽しみながら地域の歴史を継承していけたらと思っています」
さらに裕さんは現在『簾舞150年史』の原稿執筆の真っ最中で、「簾舞の歴史には今まで知らなかった発見が沢山あります」と教えてくださった。資料館の展示と解説は、今後も進化を続けそうである。

保存会の皆さんが手作りしたぬいぐるみがある馬小屋の展示。林業に使われた様々な道具がぎっしり並んでいる

定山渓鉄道で使われていたタブレット閉塞機。ボタンを押すと素晴らしい音が響きわたる。以前は壊れていたが、偶然3年前に訪れた江別市在住の現役JR運転士の方が休日ごとに通って半年がかりで修理してくれた

(写真提供:札幌市市民文化局文化財課/撮影:黒瀬ミチオ)

旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)
北海道札幌市南区簾舞1条2丁目4-15
TEL:011-596-2825(現地管理人)
開館時間:9:00~16:00、月曜(祝日の場合は翌日)・祝日の翌日・年末年始休館
入場料:無料
WEBサイト(札幌市市民文化局文化部文化財課)

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