地方史研究家が見た、感じた寿都の面白さとは

北海道日本海側はかつてニシン漁で大いに栄えた。寿都も例外ではない。まだ山に雪が残る春先に、数千もの人たちが出稼ぎにやってきた。写真は1911(明治44)年の漁を写す。建網(定置網)に入ったニシンの大群を陸(おか)に運ぶ一場面である。ソーラン節を歌いながら、左の船の下に吊された枠網から、右の船の上にニシンを汲み揚げている。右奥に、三角屋根の寿都測候所がみえる。(写真提供:泉谷博さん)

一人の気象庁職員が寿都測候所へ赴任し、このまちで暮らし始めた。野に山菜やキノコを求め、海や川で竿を振り、山を登り、スキーで降る生活を純粋に満喫していた。それが測候所の閉鎖を転機に、仕事以外の時間の9割を地方史の調査と執筆にあてる日々となった。それはナゼ?
山本 竜也-text

寿都測候所史の編纂がきっかけに

私の元には、ときおり、電話やメールが入る。
「『寿都五十話』が欲しいんですが、どこにも売っていないんですよ。余っていませんか?」
「すいません。もう品切れになってしまいまして」
「そうですか…。増刷の予定は?」
「いやあ、その予定もないので、申し訳ないんですが、図書館で借りてもらえませんか」
自費出版本は、自分の出す年賀状の枚数と同じ数しか売れないという説がある。たかだか100枚の年賀状を書くだけの人間が1000部の本を作り、2年で完売した、というのは自費出版の世界では異例かもしれない。

私は、寿都町・島牧村・黒松内町の南後志3町村の歴史を調べ、そこに生きる人たちの人生を訊き、いくつかの著作を発表してきた。本業は気象庁の職員であるが、物書き業も生活の大きな部分を占めている。
ただ、調査を始めた10年前には、自分が本を書くなど考えてもいなかった。いま振り返って、小さなきっかけが積み重なり人生は大きく変わっていくと実感している。
大学で物理学を学んだ私は、大学院では雪氷学を専攻し、2003(平成15)年に気象庁に入庁した。はじめは東北地方の気象台や航空測候所に勤務していたが、2006(平成18)年、寿都測候所への転勤を言い渡される。「小さな職場だから、みんなと仲良くやってね」という上司の言葉は上の空で、学生時代に見た情景を思い出していた。フィールド調査をする友人の手伝いで寿都のとなりの島牧村を訪れたことがあったのだ。浜にテントを張って、日本海を染めあげる夕日を眺め、翌日は、緑のブナ林を吹くそよ風を受けながら、広い川原を歩き続けた。北海道一の美しい自然だと魅了され、じつは、東北時代にも夏休みには島牧に来ていた。その隣町で働けるとは…。幸運を喜んだ。4月に寿都に赴任すると、山菜採り、海釣り、川釣り、山登り、沢登り、野湯探検、キノコ採り、スキーなどを満喫しはじめた。天国のような毎日だった。
ところが、2年後、衝撃的な知らせが舞いこむ。2008(平成20)年10月1日をもって職場が閉鎖されるという。この町にいられる残りの日数を数えながら、閉鎖に伴う業務に追われだす。そのひとつが、測候所史の編纂であった。

寿都測候所は、1884(明治17)年に寿都郡役所のなかに測候主任が置かれたことに始まる。約3000人が住むだけの現在の寿都をみていると、どうして、ここに測候所が設けられたのか、と不思議にも感じるが、当時は道内7位の人口を誇る町であった。それを支えたのがニシンである。春になると、沿岸にニシンが押し寄せ、それを求めて、建網をたてる親方、使われる漁夫たちが集まってきた。明治から大正なかばにかけて、寿都では、毎年4万石(約3万トン)以上のニシンを獲りつづける。漁業関係者が潤えば、それをあてこむ商人もやってくる。測候所のほかにも、支庁や裁判所・警察署・税務署・営林署など各種行政機関が置かれ、町は発展していった。しかし、1918(大正7)年、寿都は史上初の大不漁に落ちこむ。明治末期には、寿都本町だけで1万人ちかく、現在の寿都町にあたる地域には2万人をこえる人々が住んでいたが、大正末期にはともに半減した。

1920(大正9)年、寿都と黒松内を結ぶ私鉄・寿都鉄道が開業する。わずか16.5キロの線路と5つの駅をもつに過ぎなかったが、町民にとっては、なくてはならない交通機関であった。戦後すぐの頃には、年間乗客数が30万人を超えたが、道路網の発達や寿都鉱山の閉山により経営が悪化し、1968(昭和43)年に鉄道部門の廃止に追いこまれた。写真は、1930(昭和5)頃の寿都駅を写す。(写真出典:『寿都外三郡大観』より)

ところが、測候所の歴史を調べるうち、このような町の歴史がどこにも書かれていないことに気付いた。役場が発行した公的な町史はもちろんあるのだが、満足のいくものではない。歴史を書く上でもっとも基本となるはずの町の人口の変遷すら書かれていないのである。
そこで、昔を知る町民に会い、資料を自分なりに調べ、ホームページを立ち上げて、成果を発表するようになった。そのなかのひとつ、寿都空襲についての記事を作家の菊地慶一さんに見せると、自費出版をすすめられた。本とも言えないような薄い冊子を2009(平成21)年に出版すると、予想以上の反響をよんだ。自分が興味をもって調べて書いた文章が、人に喜んでもらえる。こんな面白いことが世の中にあったのか、と思った。
調査や執筆を本格化させ、ニシン漁・鉄道・鉱山など、寿都の歴史を2年がかりで調べた『寿都五十話』を2014(平成26)年に、南後志3町村の住民や出身者あわせて53人に人生を訊いた『南後志に生きる』を2016(平成28)年に、1891(明治24)年から1945(昭和20)年までの寿都の写真を集めた『寿都歴史写真集』を2018(平成30)年に、いずれも自費出版した。最近では、南後志を飛びだし、岩内町や仁木町でも取材するようになった。
現在の私は、釣りも山登りもスキーもやめてしまった。山菜採りとキノコ採りだけは続けているが、それも年に数回だけだ。仕事に行く時間と睡眠時間を除き、残りの時間の9割を物書き業に費やしている。

 

寿都の多面性に惹かれて

だが、ここまで駆り立てさせる寿都の歴史、後志の歴史、その魅力は何だろうか? ふだんは意識しないが、あらためて考えると、いくつかの答えが思い浮かぶ。
ひとつ目は、これまでほとんど着目されてこなかった分野だということだ。たとえば、私と縁が深い物理学や雪氷学・気象学といった学問は、国内外に膨大な数の研究者がいて、その分野の新参者は、これまでに築かれたことを一通り勉強するだけで、多大な時間を消耗する。札幌や函館など大きな都市の歴史についても同じことがいえる。一方で、後志の町村レベルの歴史であれば、調べられていないことがたくさん残っている。寿都の歴史など、何を調べても、第一人者になれるのだ。
ふたつ目は、人だと思う。私は、資料からみる歴史にも取り組んではいるが、どちらかというと、人が語る歴史を重視している。したがって、人に会うことが大事なのだが、この地域では、よそ者に対する排他的な雰囲気を感じることが少ない。私の経験では、10人に声をかけると、9人までは取材に応じてくれる。根掘り葉掘り自分について訊かれた上に、それを世に発表しようというのだ。こんな闖入者を相手にする必要などないはずなのに、ありがたいことである。その背景には、みずからの生きた証を残したいという気持ちや、着目されることの少ない町の歴史を本にするのなら協力してやりたいという気持ちがあるように感じる。
みっつ目は、この地域の多面性である。ここには、さまざまな人生経験を積んできた人たちがいる。たとえば、1920(大正9)年に寿都に生まれた佐藤喜悦さんは、寿都鉄道から南満州鉄道に移ったがために、敗戦まぎわのソ連軍の侵入に遭遇することになる。1925(大正14)年に寿都に生まれた酒本清三さんは、ブリの大豊漁の日に落札価格を見誤って背負った借金を、コウナゴの佃煮と身欠きニシンの製造で返済しつづけた。1928(昭和3)年に黒松内に生まれた安藤昭さんは、若いときには数頭の牛を飼って生活していたのに、機械化が進むと出稼ぎに出ることになった。1929(昭和4)年に台湾に生まれた石橋典子さんは、引き揚げ直前に結婚した夫に寿都に連れてこられ、町に保育園をつくった。1930(昭和5)年に島牧に生まれた竹達敬一さんは村民のテレビ視聴を実現するため、パラボラアンテナを立て、村じゅうにケーブルを引いた。ほかにも、漁業、農業、鉱山労働者、薪炭業、職人、建築業、保健師、看護師、商店主など、私の取材相手の生業(なりわい)は多方面に及ぶ。山も海も平野もある後志ならではの特徴だろう。大平野の農業地帯や産炭地をフィールドに選べば、聞き取れる話の範囲はやや狭まるように思う。

寿都測候所から見たニシン全盛期の寿都湾。右手奥に点々とする小船は漁の真っ最中である。左手奥の汽船や帆船は粒買い(生ニシンの買い付け)に来ている。左手前には、ニシンを陸揚げする人たちが写っている。明治末~大正はじめ頃に撮影され、地元で絵葉書として発行された。(写真提供:佐藤嘉洋さん)

現在の寿都湾。ニシン全盛期のような船が集結する様子はもう見られない。

現在の私は厚かましく人に踏み込んでいくが、かつては人見知りがちな性格だった。そんな私を育ててくれたのが、寿都であり、後志であった。いまも新作の構想をいくつか抱いて、私は毎夜パソコンに向かい、休日には取材に歩いている。本が売れようと売れまいと、私の場合は生活がかかっているわけではない。プロのライターに比べれば、気楽な身分である。しかし、売れるということは、自分のやってきたことが認められたということである。売れなければ、認められなかったということだ。プレッシャーはやはり大きい。
取材に応じてくれる人たちや、深い歴史をもつこの土地に恥じない本をこれからも作りつづけていきたい。

山本 竜也(やまもと・たつや)
1976(昭和51)年、大阪府に生まれる。大阪大学理学部物理学科卒業。北海道大学大学院修士課程修了(雪氷学)。2003(平成15)年に気象庁に入庁後、東北・北海道各地を移り住む。2006(平成18)年4月から2008(平成20)年9月まで寿都測候所に勤務。おもに、南後志地域(寿都町・島牧村・黒松内町)の地方史や、北海道空襲にかかわる調査・執筆活動を行っている。『寿都五十話』で、第17回日本自費出版文化賞地域文化部門賞を受賞。札幌市在住。

おもな著作

  • 『寿都歴史写真集 明治二十四年~昭和二十年』2018年:2700円(税込・以下同)
  • 『父は帰ってこなかった 北海道空襲で亡くなった人と残された人たち』2017年:864円
  • 『南後志-寿都・島牧・黒松内-に生きる 五十三人が語る個人史と町・北海道・日本の歴史』2016年:2160円
  • 『寿都五十話 ニシン・鉄道・鉱山そして人々の記憶』2014年:品切れ
  • 『北海道空襲犠牲者名簿』2011年:品切れ

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