メナシの地で、会津藩士が灯した産業の光

会津藩の絵師・星暁邨(ほし ぎょうそん)によって描かれた「標津番屋屏風」。現在、標津川は昭和の河川改修により流れが変えられているが、標津神社は今も同じ位置にある。実物は新潟県の西厳寺(さいごんじ)に保管されている(写真提供:標津町ポー川史跡自然公園)

標津の由来はアイヌ語で「シベツ 鮭のたくさんいるところ(あるいは、大きな川)」を意味するとされている。幕末に標津を領地とした会津藩は、川をのぼる大量の鮭を資源とし、地域の開発に取り組んだ。屏風絵に描かれた鮭と人々の風景は、現在の「鮭のまち」の原点である。
柴田美幸-text 黒瀬ミチオ-photo

屏風絵に描かれた会津藩の標津

一隻(せき)の屏風に描かれた、小舟が連なる大きな川と、そのほとりで忙しそうに働く人たち。よく見るとアットトゥ(樹皮の糸で織った着物)を着たアイヌの人々のようだ。小舟に満載されているのはすべて鮭で、舟から降ろされた鮭は背負い籠で小屋へ運ばれていく。小屋の戸は開いていて、なにか作業をしている人と、おびただしい数の鮭が積み上げられているのが見える。
これは、塩をたっぷりまぶした鮭を山のように積み上げて水分を抜き、じっくり熟成させた鮭の加工品「山漬け」作りの様子を描いた「標津番屋屏風」である。描かれた1864(元治元)年、根室海峡沿岸のメナシの地は会津藩の領地だった。

 

会津藩がこだわった「メナシの鮭」

屏風絵が描かれるまでには、こんな背景がある。
18世紀、松前藩が場所請負制(ばしょうけおいせい)で商人を介して行っていた交易の範囲は、千島列島に連なる国後島、さらに択捉島まで拡大した。本州向けの蝦夷地産物として、それまでのラッコ毛皮や鷲羽などの軽物に加え、肥料用の鮭や鱒などのしめ粕や、塩鮭・塩鱒が重要な品となったのである。これらはアイヌの人々を酷使して生産され、1789(寛政元)年のアイヌの蜂起「クナシリ・メナシの戦い」のきっかけとなった。
同じころ、ロシアがラッコ毛皮を求めて千島列島を南下し、択捉島の手前のウルップ島まで達する。18世紀後半にはロシア船がたて続けに蝦夷地へ来航した。根室を訪れた使節ラクスマンは、日本との通商を申し出る。19世紀に入ると、使節レザノフが長崎を訪れ通商を求めた。しかし幕府が拒絶したことで、択捉島の会所(交易の拠点)がロシア海軍士官から襲撃される。さらに、ロシア海軍のゴローウニンらが極東沿岸調査の途中、国後島に上陸。拿捕したところ、報復として根室場所請負人の高田屋嘉兵衛が野付半島沖でロシアに拉致される事件も起こった。
根室海峡および千島列島でロシアとの接触や衝突が増すなか、1855(安政2)年、日露通好条約が締結される。択捉島とウルップ島間に国境が定められると、蝦夷地の大部分を幕府が直轄。その後、東北諸藩に蝦夷地を分割して領地として与え、国境の北方警備と領地の開拓を命じたのである。
会津藩の蝦夷地統治は、1860(万延元)年から始まった。会津藩の領地は、松前藩の商場だった根室場所のうち、西別(現在の別海町本別海)から知床半島までと、網走を除く道北の紋別にいたる範囲である。いわば国境への最前線に配置された会津藩は、北方警備の拠点を標津に定め、本陣を置く。標津が国後島に一番近い集落だったこともあるだろうが、もうひとつの大きな理由が川にあった。
先の屏風絵に描かれている川は標津川だ。実は、北方警備を命じられたころの会津藩は財政が苦しかった。秋に群れをなして川をのぼる鮭は、会津藩にとって宝の山だったのだ。標津の初代代官を務めた会津藩士・一ノ瀬紀一郎(いちのせ きいちろう)がまとめた『北辺要話』には、「寒所(メナシ)領に産する鮭は毎(ことごと)く江戸に運漕す」とあり、姿形がとても美しく、他所のものよりも高価だからだと記されている。標津地域の鮭が特別な眼差しで見られていたことを会津藩は知っていた。
また、根室場所は仙台藩と領地を分け合ったが、献上鮭で知られた西別川が会津藩領に入るよう境界を定めたという推測もある。会津藩は当初から鮭を藩の経営基盤として重視し、陣屋建設とともにシベツ(標津)場所での鮭の漁場経営にあたった。屏風絵は、その当時の様子がわかる数少ない史料のひとつである。

藩ごとの警備地を表した「蝦夷地警営図」。ニシベツ(左端)が会津領に組み込まれているのがわかる(加賀家文書館 所蔵)

松浦武四郎と交流した会津藩士たち

なぜ、会津藩は前もってメナシの鮭の価値を知り、活用することができたのだろう。鍵を握るのが、北方探検家であり海防問題の専門家だった松浦武四郎である。一ノ瀬は会津藩の蝦夷地分割統治の前年、武四郎のもとを訪れている。このとき鮭の情報を得たのかもしれない。
もう一人、武四郎と交流があったのが、標津の2代目代官となる会津藩士・南摩綱紀(なんま つなのり)である。アメリカの黒船(ペリー艦隊)に衝撃を受け、国防のためにも西洋の新しい知識を取り入れる必要性を感じ、最初に洋学を学んだ会津藩士とされる。武四郎のもとを頻繁に訪れ、蝦夷地について知見を得ていたようだ。代官として標津へ赴任する際にも、武四郎から蝦夷地に関する情報をもらっていたはずである。
そして、蝦夷通詞(アイヌ語通訳)・加賀伝蔵の存在も大きかった。前出のように、武四郎は野付通行屋で働いていた伝蔵と出会い、アイヌの人々とともにあろうとする姿勢を高く評価していた。南摩と一ノ瀬は、蝦夷地での経営に欠くべからざる人材として、武四郎から伝蔵のことを聞いていたに違いない。

海岸に近いホニコイチャシ跡(16〜17世紀)に、会津藩の陣屋が建てられていた。会津藩から建設候補地を相談された伝蔵がアイヌの人にアドバイスを求めると、日当たりの良いこの場所を勧められたという

南摩綱紀と加賀伝蔵の「鮭のまち」

加賀伝蔵は、15歳で秋田から蝦夷地に渡り、クスリ(釧路)場所の飯炊きからキャリアを積んだ。アイヌの人々と親しく交流する中でアイヌ語を習得し通詞となる。伝蔵はアイヌ文化も深く理解していた。初代代官の一ノ瀬は、伝蔵に「大通詞」の称号を与える。その2年後に赴任した南摩は、伝蔵を経営トップの「シベツ場所支配人」に抜てきした。

伝蔵が持っていたアイヌ語の辞書『蝦夷方言藻汐草(もしおぐさ)』。通詞・上原熊次郎が1804(文化元)年に刊行した同書を写し、自分用に作製したもの(加賀家文書館 所蔵)
*加賀伝蔵のアイヌ語辞書などの史料は、北海道博物館 特別展「アイヌ語地名と北海道」(〜2019年9/23 月・祝)で展示中(前期と後期で入れ替えあり)

伝蔵が根室場所の通詞だったころにアイヌの風俗を描いた『蝦夷物語』(加賀家文書館 所蔵)

別海町郷土資料館学芸員の石渡一人(いしわた かずひと)さんは、「会津藩が蝦夷地で領地経営を行うにあたり、アイヌ語が堪能なだけでなく、風習など文化にも精通した人材は喉から手が出るほど欲しかったはずです。とくに南摩は、自分たちとアイヌの人々とのあいだをつないでくれる人を求めていたと思います」と話す。

南摩が蝦夷地代官となった1862(文久2)年は、会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)が幕府に京都守護職を任命され、京都入りした年だった。藩の財政が逼迫するなか、同時に北方警備にもあたらなければならなかったときに、南摩は新領地で豊富な資源を目にする。とくに鮭という水産資源に、海を持たなかった藩として今までにない可能性を見たのだろう。
そこで南摩が構想したのは、水産業を基軸とした領地(くに)をつくることだった。従来のようにアイヌの人々を単なる労働力として搾取・酷使するのではなく、地域の環境をよく知るアイヌの人々を和人と同様に自領の民として扱い、ともに領地を開拓しようとしたのである。そのためには、伝蔵のような人材がどうしても必要だったのだ。

別海町郷土資料館・加賀家文書館 学芸員 石渡一人(いしわた かずひと)さん

伝蔵は、南摩のもとでアイヌの人々への教育にも携わる。南摩は日本語を押し付けることはせず、和語の横にアイヌ語の訳をつけた教本を伝蔵とともに作るなど、アイヌ語による教育を行った。
「黒船を見て洋学を学んだ南摩には、異なる文化を理解しようという姿勢があった」と石渡さんは指摘する。文化の違いをお互い理解し合ったうえで、ともに地域をつくっていこうとする南摩の考えは、従来の場所請負制を批判していた武四郎の考えと一致するものだった。伝蔵も共感したからこそ協力を惜しまなかったのだろう。

幕府が各場所に配布した道徳の教本「五倫名義解(ごりんめいぎかい)」(左)。伝蔵が和語の横にカタカナでアイヌ語の注釈をつけたと思われる。アイヌが和語を理解できるだけでなく、和人がアイヌ語を理解できるようになることも考えていたのかもしれない(加賀家文書館 所蔵)

「標津番屋屏風」には、南摩と伝蔵と思われる人物も書き込まれている。彼らの視線の先の活気ある様子は、鮭を中心とした産業が築かれつつあったことを感じさせる。現在につながる「鮭のまち」の原型は、このとき出来上がっていたのだ。

中央が2代目代官・南摩綱紀と考えられている

対になった、黒船が停泊する箱館港を描いた「箱館港屏風」は、新領地の鮭や人々によって欧米の驚異に対抗できる力を蓄え、藩として新たな時代へ漕ぎ出すという意気込みを感じさせる。二隻一双(にせきいっそう)の屏風絵は、そうしたメッセージを京都の容保公へ届けるために描かれたものだった。

結局、1868(慶応4)年に始まった戊辰戦争により江戸幕府が終焉を迎え、南摩の構想は実現されることはなかった。しかし時代が明治に変わったとき、新たな産業の芽吹きによって引き継がれていくのである。

兄の病気のため、故郷の秋田へ帰省することになった加賀伝蔵へ南摩綱紀が贈った漢詩。通訳として「彼(伝蔵)にかなうものはいない」と絶賛している。また、「標津」という漢字での表記はこれが初出とされる(加賀家文書館 所蔵)

近代産業の扉を開いた鮭の缶詰

蝦夷地から「北海道」になり、本格的な開拓が始まった明治時代。それを担う開拓使は新たな産業として、最新技術だった缶詰に着目する。北海道の豊富な水産資源を活かした缶詰工場をつくれば、沿岸部に移住者を定住させることができ、製品として国内外で流通させれば国益につながると考えたのだ。
1877(明治10)年、缶詰製造技術が発達していたアメリカから技術者のトリートを招へいし、道央の石狩に缶詰製造所を開業。石狩川産の鮭・鱒で缶詰が作られた。産業化を目指した本格的な缶詰製造は、これが日本初である。
「実は、最初は西別川産の鮭で作る予定でした。別海では石狩の1年前に試作していたのです」。そう教えてくれたのは、別海町教育委員会生涯学習課の戸田博史(ひろふみ)さんだ。献上品にもなった西別川の鮭の品質は「第一等」であり、開拓使の本命だったのだが、開拓使が置かれた札幌からの距離の問題などで石狩が優先された。
西別川河口に「別海缶詰所」が開業したのは、翌1878(明治11)年のことだ。その後、厚岸、択捉島の紗那(しゃな)と立て続けに根室海峡沿岸に工場が作られ、鮭・鱒の缶詰は海外で一定の評価を得ていく。戸田さんによると、「欧米ではシロザケより赤身のベニザケが好まれた」という。

明治10年代後半ごろの別海市街図。西別川沿いに「缶詰所」と、実習生の施設「缶詰生徒舎地」があったことがわかる(別海町郷土資料館 所蔵)

1887(明治20)年、別海缶詰所は根室の有力な漁場持ち・藤野辰次郎(たつじろう)に払い下げられ「別海藤野缶詰所」となる。明治20〜30年代は日清・日露戦争により、軍用として缶詰の需要が高まっていた。藤野は標津にも工場をつくり、昭和に入ると標津がメインの工場となっていく。ところで藤野家は、加賀伝蔵の一族が代々働いていた根室場所請負人の家系である。時を経て鮭の産業化に携わったことに、歴史のめぐり合わせを感ぜずにはいられない。

五稜星マークに官営時代のなごりが見られる、別海藤野缶詰所の鮭缶のラベル。昭和初期と思われ、「召上り方」にはアレンジレシピも書かれている(別海町郷土資料館 所蔵)

藤野缶詰所は標津以降、根室や国後島、択捉島、朝鮮にも缶詰所を設置していた。この出荷用木箱には「根室藤野缶詰所製造」とある。年代は不明。入っている缶詰はレプリカ(別海町郷土資料館 所蔵)

藤野以外にも、根室の酒造業・碓氷(うすい)勝三郎がエビやカニの缶詰も手がけるなど、缶詰製造業は根室海峡沿岸を代表する産業となった。缶詰によってそれぞれのまちは発展し、昭和初期まで日本の漁業や貿易に大きな影響を与えていたのである。

別海町教育委員会生涯学習課 戸田博史(ひろふみ)さん


幕末に会津藩士が灯した産業の火は、かたちを変えて、近代という新たな時代に強い光を放った。そして現代にいたるまで、鮭は人々をつなぎ、まちに力を与える存在であり続けている。


別海町郷土資料館・加賀家文書館
北海道野付郡別海宮舞町29番地
TEL:0153-75-2473
入場料:(両館共通)一般300円、高校生以下無料
営業時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
定休日:第2・第4月曜、第1・第3・第5土曜、祝日、12/26~1/6
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