札幌の基盤となった大友堀を照らして

札幌村郷土記念館、前庭の大友亀太郎像。「札幌村」は現在の札幌市東区とほぼ同域にあたり、記念館が建つ東区北13条東16丁目は、亀太郎が1866年に赴任したときの役宅(のちの札幌村役場)跡地

札幌のまちを東西に分ける創成川。そのもとになった「大友堀」が完成したのは、明治が幕を開ける2年前のこと。長さ4kmにわたる用水路を4カ月で掘りあげ、橋や道路をつくり、畑をひらき、まちの礎を築いた大友亀太郎の足跡を訪ねた。
石田美恵-text 伊藤留美子-photo

亀太郎さんの大友堀

札幌村郷土記念館は、江戸時代末から明治・大正にかけて札幌村(現札幌市東区)に入植した2世、3世の人たちが中心となり、1977(昭和52)年に完成した施設である。地域に残る農業や生活の資料を収集・展示し、先人の苦労と功績をしのび、永く後生に伝えるために誕生した。かつては一面のタマネギ畑、いまや住宅街となった一角にある建物のとびらを開けると、記念館保存会事務局長の玉井晶子(たまい・しょうこ)さんが迎えてくださった。
「まず中をご案内しましょう」
1階の展示室に入ると、つい先日完成したばかりという大きな地図が床に広がっていた。これをみると、大友堀が現在の創成川のどの部分に相当するかがよくわかる。

創成川の南3条東1丁目から北6条東1丁目付近までが現在も残る大友堀の部分。大友堀はその先大きく北東に曲がって伏古川へと注いでいたが、1925(大正14)年ころ埋め立てられた


「亀太郎さんが1866(慶応2)年に大友堀を完成させていたので、明治になって島判官が赴任したとき、大友堀と垂直に交わるように大通を決め、まちを碁盤の目に設計しました。もし大友堀が別の形だったら、札幌はいまと違う様子になっていたかもしれません」。玉井さんは親しみを込めて「亀太郎さん」と呼ぶので、わたしたちもそれに習おう。
亀太郎さんは1834(天保4)年、相模国の西大友村(現神奈川県小田原市)の農家に生まれた。子どものころから熱心に勉強し、20才で村の会計係を任されるほど優秀だったという。22才のとき、人のために役立つにはまだまだ勉強が足りない、とかねてから尊敬していた二宮尊徳に弟子入りし、尊徳のもとで畑人夫(土木技術者)として働きながら教えを受け、新しい村づくりの技術や方法を学んだ。

当時、江戸幕府は蝦夷地の開拓を進めようと数年前から二宮尊徳に協力を依頼していた。尊徳自身はそのころ病気で亡くなるが、後を継いだ息子が幕府の依頼を受け、弟子を蝦夷地に送ることになる。そこで、優秀だった亀太郎さんは1858(安政5)年、幕府の役人(開拓農夫取立方)を命じられ、翌年に道南・木古内、鶴野(現七飯町)などの開拓に着手。原生林を切り拓き、木古内には34ヘクタールの田畑をつくり、農家20戸を定住させ、鶴野にはさらに広く100ヘクタールの田畑をつくり、農家48戸を入植させて開拓を無事成功させる。
こうした仕事が認められ、1866(慶応2)年、亀太郎さん32才のときに西蝦夷の中心地である石狩地方の開拓を任される。こうして、いよいよ札幌村の開拓が始まった。

……といった物語を、玉井さんが流れるように話してくださる。記念館は市内外の小・中学校の団体見学を多く受け入れているので、どれだけ大勢の子どもたちがこうした説明を聞いたことだろう。

大友亀太郎肖像(札幌村郷土記念館蔵)

玉井晶子さん。1896(明治29)年に祖父が新潟から札幌村に移住して米屋を営んでいた縁で、10年ほど前から札幌村郷土記念館保存会の事務局長を務める

さて、石狩に赴任した亀太郎さんがどんな仕事をしたかというと、最初は土地探し。これまでも一緒に開拓してきた10人の仲間とともに、石狩平野の原生林に分け入り、札幌扇状地を流れる川の一つ伏古川をさかのぼり、現在の記念館がある一帯を開拓の中心地と決めた。土地が肥沃で農業に適し、この伏古川を利用すれば石狩との交通も便利になると考え、ここに「察歩呂村御手作場」を開設。さっそく測量にかかり、1866(慶応2)年6月から用水路と道路、橋の工事をはじめ、9月初めには完工。長さ約4km、深さ約1.5mの用水路づくりは当時の最高技術を用い、毎日40〜50人の人夫が働く大工事で「一万両の大工事」と呼ばれたという。

その後、周囲の土地をどんどん切り拓き、低いところには土を運んで平らにし、1867(慶応3)年4月に農家約20戸、およそ70名を入植させて本格的な田畑づくりを開始。伏古川に沿って1軒に約1ヘクタールずつ土地を割り当て、米、大豆、ヒエ、アワなどいろいろな作物を栽培させた。各家には米や味噌を配り、税金は13年間納めなくてよいといった決まりをもうけるなど農民のために力を尽くし、開拓は大きく前進していった。

しかしそれからわずか3年後、亀太郎さんは37才で北海道を去ることになる。
1868(明治元)年1月に王政復古の大号令により江戸幕府が解体、1869(明治2)年に明治政府によって開拓史が設置されると、亀太郎さんは御手作場を開拓使に引き継ぎ、「兵部省石狩国出張所開墾掛」という新しい役職を命じられる。それから旧会津藩士たちを移住させる準備のため石狩当別を調査し、トウベツ山で造材の仕事につくものの、1870(明治3)年4月に兵部省の方針で計画中止となる。亀太郎さんは残務処理をした上で兵部省を辞職し、その後開拓使から任じられた「使掌」(低い役職の一つ)も即日辞退し、1870年6月に妻と息子とともに故郷に帰ってしまった。帰郷の理由は、明治政府の方針がわずかの間に何度も変わることに失望したため、と伝えられている。

記念館の2階には、亀太郎さんの子ども時代の習字(ものすごく上手!)や、測量に使った機材の資料、御手作場の記録、当時の地図、遺品など多くの資料が展示されている。そのなかに、中国の柳宗元という人が詠んだ漢詩を記した、亀太郎さん直筆の書が飾ってある。

破額山前碧玉流 騒人遥駐木蘭舟
春風無限瀟湘意 欲采蘋花不自由

破額山のほとり、碧玉のごとくあおく澄みきった流れ
風雅の士たる貴方が、遙かなる所に木蘭の香しい舟をとどめられた
春風そよぐとき、この瀟湘の地にあって、ものおもうことははてしがありません
水草の花をとって差し上げようと思いますが、どうにもままならぬ今の身の上です

「幕府の時代は開拓の第一線で活躍してきたけれど、明治になるとそれもできなくなってしまった、という亀太郎さんのがっかりした気持ちがこの詩に重なっているように思います」と玉井さん。また、札幌村を離れる際、これからも地域の人を見守ってくれるようにと、「妙見大菩薩」と呼ばれる仏様を残していったと伝えられている。この像は、記念館の近くにある本龍寺境内の妙見堂に現在もまつられている。

亀太郎さん直筆の漢詩

着任150年をきっかけに

2016年、亀太郎さんが札幌村に着任して150年という節目を迎え、札幌村郷土記念保存会ではいくつかの記念事業を行った。そのメインイベントが、ノンフィクション作家の合田一道さんを講師に迎え、「大友亀太郎とその時代」と題した記念講演会の開催である。現在記念館の館長を務めている山田治仁(やまだ・はるひと)さんは、当日会場が一杯になるか心配で、連合町内会の知り合いみんなに声をかけたという。そして開催日の10月20日、東区区民センターの大ホールは立ち見客が出るほどの大盛況となり、講演会は大成功をおさめた。
「わたしたちが予想していた以上に多くの人が、大友亀太郎に興味、関心をもって、講演会に足を運んでくださいました」と山田さん。保存会副会長の大竹實(おおたけ・みのる)さんも口を揃える。「札幌の開祖である大友亀太郎の歴史や功績は、わたしたちの知的財産のようなものだと改めて感じました」。

この記念講演がきっかけとなり、翌年の5月には小田原市で、同じく合田さんの講演会が開催された。さらに2年後、2018年11月には「大友亀太郎の事績と大友堀遺構」が北海道遺産に選定され、あらためて注目が集まることとなった。保存会会長の橋場善光(はしば・よしみつ)さんがこう話してくれた。
「着任150年の記念行事を成功させようという目標にむけて、会員の結束が強まって、活動がより活発になりました。札幌の発展はここから始まったと思っています。そのことを誇りに感じながら、先人たちの偉大な歴史を守り伝え、これからの人たちにつなげていきたいですね」
記念館の雰囲気が温かく、なごやかなのは、亀太郎さんや先人への気持ちが、ほんとうに身近な感謝や尊敬の気持ちとして、ここに深く息づいているからなのだと思う。

写真左から、記念館館長の山田治仁さん、保存会会長の橋場善光さん、同副会長の大竹實さん

着任150年記念のクリアファイルと、東区が発行した冊子など。クリアファイルは6000部作製し、来館者に無料で配布した

札幌村郷土記念館は大友亀太郎に関する資料のほか、明治時代初期から栽培が始まり、札幌村を代表する農作物となったタマネギに関する資料、明治・大正・昭和にかけての日常生活の道具、かつての小中学校の教科書など、地域の歴史をひもとく貴重な資料が多数展示されている。下の写真の模型は1955(昭和30)年まで記念館の場所に建っていた札幌村役場


札幌村郷土記念館
北海道札幌市東区北13条東16丁目2-6
TEL:011-782-2294
開館時間:10:00~16:00
休館日:月曜日、祝日の翌日、12月29日~1月5日
入館料:無料
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