「炭鉄港」が日本遺産に~3

元炭鉱マンが語る旧住友赤平炭鉱の記憶

赤平の「旧自走枠整備工場」でガイドする三上さん。オレンジ色の炭鉱人車(右)の表示看板ひとつ取っても、詳しく意味を解説できるのはさすが元炭鉱マン!

空知地域に数多く残る炭鉱跡をいくら見つめても、そこから石炭が運び出される風景を再び見ることは叶わない。けれど、想像はできる。手掛かりとなるのは膨大な記録や写真、今に残る道具や建物だ。さらに、語り部となる「人」がいれば、知見はもっと深まるだろう。赤平で炭鉱遺産ガイドを務める元炭鉱マン・三上秀雄さんの語る“炭鉱(やま)の記憶”は、世代を超えて人を引き付ける。
新目七恵-text 伊藤留美子-photo

「はじまりのうた」(2013年、ジョン・カーニー監督)という映画に、ヒロインの歌を聞いた音楽プロデューサーが、ライブハウスに置かれていたピアノやドラム、チェロがひとりでに動き出し、美しいアレンジが生まれる瞬間を幻視するというシーンがある。音楽の魔法を描く心躍る場面だが、「赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設」のガイド・三上秀雄さんの話を聞いていると、似たような錯覚を覚えた。

たとえば、ガイダンス施設そばにそびえる旧住友赤平炭鉱の「第1立坑櫓」。巨大な滑車(ヘッドシーブ)でワイヤーを巻き上げ、4段重なる箱型ケージで鉱員を地下615mまで送り、採掘した石炭を引き揚げるエレベーター的設備だが、「ケージ1段に鉱員18人が乗り込むんです。ぎゅうぎゅう詰めですよ。それが秒速12m、時速43.2kmの勢いで移動しますから、降りる途中で耳がつーんとしましてね…」というリアルな体験談を聞くと、見えないワイヤーが動き出し、目の前のさびれたケージが今にも地下深く降下するような気がしてくるのだ。

「ヤード」と呼ばれる旧住友赤平炭鉱「第1立坑櫓」の操車場には、線路やケージが閉山時のまま保存されている

上の写真は立坑櫓の滑車「ヘッドシーブ」。直径5.5mの大きさは、下の写真の立坑上部に4つある滑車も同じ。このサイズ感を体感してもらおうと、ガイダンス施設の天井にも同じ大きさの丸枠がデザインされている

「赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設」は2018年7月にオープンした真新しい建物だが、三上さんの炭鉱遺産ガイド歴は長い。その始まりは今から16年前、2003年に遡る。けれどまずは、彼と炭鉱の関わりを紹介しよう。

 

なんでいまさら炭鉱を?

「生まれも育ちも仕事も、みんな炭鉱がらみなんです」という言葉通り、三上さんは“道内最古の炭鉱”「茅沼炭鉱」があった後志管内泊村で生まれた。もちろん、親がその茅沼炭鉱で働いていたからで、1964年の閉山後、一家で移り住んだのが、赤平市だった。勤め先は、市内に4つある大きな炭鉱の中でも最大手の「住友赤平炭鉱」。当時20億円を投じて建設された「第1立坑櫓」が完成して1年という時期で、“東洋一”とされる最新設備の屋上には赤いネオンが煌々と灯っていた。

高さ43.8mの第1立坑櫓は、昔も今も赤平炭鉱のシンボル的存在

会社が設けた高校を卒業した三上さんは、18歳から採炭現場へ。23歳からは、炭鉱が独自に編成した「救護隊」を兼務し、事故が起きた際には真っ先に駆け付ける危険な役目を担う。26歳のときに炭鉱の職員に採用され、保安員や現場監督を長く務めた。

レールを移動するケーブルカー・斜坑人車で入坑する鉱員たち(提供:赤平市教育委員会)

小型の手持ち採炭器・コールピックを使った急傾斜欠口での採炭の様子(提供:赤平市教育委員会)

最盛期を過ぎた昭和40年代、赤平市内の3つの炭鉱は次々と閉山。最後の一山となった「住友赤平炭鉱」は深部開発・大量採掘が可能な大型立坑で生き残りを図ったけれど、時代の波には逆らえず、1994年に閉山する。43歳だった三上さんは閉山後1年ほど残務処理に追われ、その後は赤平市の嘱託職員となって家族を養った。

そして2003年。三上さんが炭鉱遺産ガイドに初めて挑戦するきっかけとなった出来事が起こる。国内外の研究者が鉱山の歴史や遺産的価値について議論・研究発表を行う「第6回国際鉱山ヒストリー会議」だ。三上さんはそこで、地元の炭鉱遺産を案内してほしいと頼まれる。

「なんで今さら炭鉱なんだろう?」。当時の心境を三上さんはそう語る。2002年には「空知の炭鉱関連施設と生活文化」が北海道遺産に認定。空知全体で「炭鉱(やま)の記憶」を伝えようという機運が高まっていたとはいえ、当事者である元炭鉱マンや地元住民の多くにその思いが共有されていたわけではなかったようだ。三上さんもその一人で、気づけば炭鉱と無縁の生活を送って早8年。「興味がなかった、というか、ただ当たり前のように働いていただけなので、炭鉱遺産の価値なんて全然わかりませんでした」と振り返る。それでも、炭鉱を知る一人として協力したのが、今につながる一歩となった。

「昔は無口で通ってたんだけれど、いつの間にこんなおしゃべりになったかねぇ」と笑う三上さん。その優しい人柄に惹かれるガイド参加者も少なくない

「TANtan」がつなげたもの

三上さんにとって1回きりだったはずの炭鉱遺産ガイド。これを続けることになったのは、「国際鉱山ヒストリー会議」を契機に、地元の炭鉱遺産を活用しようと始まった赤平コミュニティガイドクラブ「TANtan(たんたん)」に参加したからだった。仲間の熱意に誘われた三上さんは、申し込みがあるときに立坑や関連施設の案内をするようになる。

さらに「TANtan」は、炭鉱遺産を巡るフットパスのコース作りや立坑ライトアップ、炭鉱施設を会場にした市民イベントなどを展開し、注目を集める。三上さん自身もさまざまな人に出会い、ガイドを続けるうちに、身近な存在だった炭鉱への意識が大きく変わったという。「赤平には炭鉱遺産がある。このまちの歴史・文化を伝えたい」。いつしかそんな思いを強く抱くようになった三上さんは、先輩の後を継いで「TANtan」2代目代表となり、活動の先頭に立っていた。

そうして2018年、三上さんは「赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設」の常勤臨時職員となり、それまでほぼボランティアで休日などに引き受けていたガイドを、開館中は業務として毎日行うようになったのだ。オープンして1年が過ぎた2019年10月、ガイダンス施設の入館者は1万5000人を突破。その3分の1に当たる5000人が三上さんのガイドを申し込み、炭鉱遺産の魅力に触れた。

廃墟マニアの心に響け

「赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設」で三上さんがガイドする主な見学場所は、「第1立坑櫓」と、数々の大型機械が展示されている「旧自走枠整備工場」だ。取材させていただいた10月中旬の日も、午後の部に5人が参加し、三上さんの話を興味深そうに聞き入っていた。

下の大型機械「自走枠」とは、切羽(採炭現場)の天井が崩れないようにする支えのことで、採炭を効率よく大量掘削するために開発された。その仕組みや扱い方を説明した三上さんは「気を抜いて機械に触れたりしたら怒られたものですよ」と一言付け加えた

三上さんによると、ガイドの申し込みは空知地域の高齢者団体をはじめ、道外からの旅行客、特に一人旅をする女性客が意外と多いそう。なかには8回通うリピーターもいると聞いて驚いたが、実際に現場を歩くと、迫力ある空間に圧倒。さらに、三上さんの臨場感ある説明が滅法面白く、今や動かぬモノたちが秘める無数のストーリーに思いを馳せるうち、時間はあっという間に過ぎていった。
「驚いたのは、廃墟マニアの若者たちが私の話を聞くうちに炭鉱を“遺産”として捉えてくれるようになったこと。経験者の話は違うと喜ばれるので、元気に頑張りたいと思っています」と三上さんは嬉しそうに語る。

赤平の炭鉱遺産のシンボル・旧住友赤平炭鉱「第1立坑櫓」の保守・点検作業を行う三上さん(※炭鉱遺産ガイド付き見学の見学コースではありません)

時折冗談を交えながら"炭鉱の記憶”を語る三上さんだが、「実はガイドを始めた当初は、事故の話をしたくなかったんです」と打ち明けてくれた。
「救護隊」として事故の惨劇を何度も目にし、後輩を自分の手で掘り出したこともある三上さんにとって、事故を語ることは辛い過去の記憶と向き合うことでもあった。「炭鉱に事故はつきものだ、なんて軽々しく言いたくない」という葛藤を抱えながら手探りでガイドするうち、どうしても避けられない話題だと気づく。そして、「単に炭鉱の明るい部分だけ話しても駄目だ。炭鉱で起きた現実を伝えなければ」と腹をくくるようになったのだという。

とはいえ、三上さんのガイドから受ける炭鉱の印象は決して暗くない。なぜなら、事実として事故を語ると同時に、現場で行われていた安全・保安対策の説明にも力を入れるからだ。入坑時には検身(捜検)を必ず受け、タバコやマッチ、ライター類の持ち込みは厳禁だったこと。坑内には万が一に備え、空気供給設備(救急バルブ)が設置されていたこと。石炭産業はいかに多くの人の知恵と工夫、当時の最新技術で成り立っていたかが、三上さんの言葉によってひしひしと伝わってくる。

ガイダンス施設内では坑道を網羅した実測図やジオラマ、「救護隊」の道具など約200点の資料を展示。ひとつひとつの使い方を三上さんは詳しく教えてくれる

“炭鉱の記憶”を後世に

2019年5月、文化庁の「日本遺産」に「炭鉄港」が選ばれたことも追い風となり、ここ赤平の注目度は高まっている。そんな中、日々ガイドを行う三上さんの課題は、後継者の育成だ。元炭鉱マンでなくても歴史の語り部となれるよう、記憶を文字に起こしたり、ガイドの様子を映像で記録したりしている。また、石炭を知らない世代、特に子どもへの伝え方も試行錯誤の最中だという。

赤平市内に今も残るズリ山。ふもとには旧選炭場があり、頂上に向かって777段の階段が整備されている

そんな三上さんが楽しみにしているのが、12月13日に公開されるアニメーション映画「ぼくらの7日間戦争」(村野佑太監督)だ。ご存じ宗田理の人気小説が原作の“青春エンターテインメントの金字塔”。大人に反抗した中学生たちが廃工場に立てこもり、爽快な逆襲劇を繰り広げるストーリーだが、初のアニメ化となる本作は設定を2020年の北海道に移し、なんとメイン舞台「廃工場」のイメージに旧住友赤平炭鉱の立坑ヤードが採用されているそう! ロケハンなどに協力した三上さんは「アニメを通じて若い世代に炭鉱遺産の魅力が伝わればうれしい。“聖地巡礼”のお客さんが増えたら、ガイドをもう一人増やす必要が出てくるかもしれませんね」と期待を寄せている。

主演声優を北村匠海、芳根京子が務めるほか、1988年の実写版で初主演した宮沢りえが声優として特別出演する ©2019 宗田理・KADOKAWA/ぼくらの7日間戦争製作委員会

「炭鉱は日本の近代化、戦後は復興を支えた立役者です。その石炭産業に携わったという自負はありますけれど、自慢ではなく、その経験をいかに相手に伝えるか。炭鉱で栄えた赤平というまちにはこんな歴史があったんだよと、一人でも多くに伝えたいです」と三上さん。

取材の最後、私は思わず「さみしさはないですか?」と尋ねてしまった。最盛期には22カ所の炭鉱が昼も夜も稼働し、活気であふれた赤平のまち。その興隆と衰退の歴史を、ガイドのたびに繰り返す切なさを思ったのだ。
けれど、返ってきたのは「それは、ないですね」という答え。「確かに炭鉱が閉山したときは、あの人もいなくなった、この人も行ってしまった…という思いでいましたけれど、過ぎてしまえばこんなもんかな、と。今は仕事の一環として、このガイドをできるだけ長く続けたいです」と穏やかに話してくれた。これからも三上さんは、彼にしか語れない“炭鉱の記憶”で、私たちを往時へと誘ってくれるのだろう。その朴訥とした言葉の裏に、元炭鉱マンの矜持を見た気がした。


赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設
北海道赤平市字赤平485番地
TEL:0125-74-6505
営業時間:9:30~17:00 ※入館は16:30まで
入館料:無料 ※炭鉱遺産内のガイド付き見学は有料
定休日:月曜、火曜 ※祝日の場合は、その翌日休館。年末年始は12月30日(月)~2020年1月7日(火)まで休館

※炭鉱遺産内のガイド付き見学
定員:40人
催行時間:開館日の午前(10:00~)と午後(13:30~) ※所要時間約90分
ガイド料:一般・中学生以上800円、小学生300円、障がい者600円 ※赤平市民、団体利用は特別料金
WEBサイト

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