北海道にスキーが広まるきっかけは、スイスから東北帝国大学農科大学(現北海道大学)に赴任したハンス・コラーがつくった。1909(明治42)年、ドイツ語の教材としてスキーの技術書を使い、興味を持った学生たちにせがまれてスキーを取り寄せた。これを見本に学生たちは札幌豊平にある馬そり屋にスキーを4、5台つくらせ、大学構内や三角山で何度も転びながら練習を重ねたという。
1912(明治45)年、新潟県高田でスキーを教えていたオーストリアの軍人レルヒ中佐が旭川師団に転任し、3週間のスキー講習会を開いた。参加できない学生たちは大変悔しがり、その後、レルヒから直に習った三瓶勝美中尉から技を学び、決死の覚悟でモイワ山へスキー登山に出かけている。きっかけづくりは先でもコラーは実技経験がなかったので、「北海道スキー発祥の地」は旭川の春光台公園(旧日本軍の演習地)なのだ。
名寄にスキーが伝わったのは1913(大正2)年。レルヒから技術を学んだ旭川郵便局長が、道北の郵便局員や通信工事関係者を対象に講習会を開き、名寄の電話架設工事に携わった沢田五三郎が参加した。法弘寺の初代住職もスキーで檀家をまわり、翌年には境内で競技大会を開くほど普及に尽くした。
寒冷積雪地に生育した木材は、その地の雪質に合うスキーになる。1921(大正10)年、名寄でスキーが生産されるようになったのは、イタヤやナラなどの良材に恵まれていたからだ。当初は馬そりや農機具、家具職人が副業的に始めた。特に木材を曲げる技術を持つ職人にとって、単板スキーづくりはそれほど難しい作業ではなかったのだろう。
最初の「富士スキー製作所」が誕生したのは、樺太(現サハリン)出身のスキーの草分け、桜庭留三郎の影響が大きい。馬そり職人だった鈴木喜作は、適材を求めて樺太からやってきた桜庭を自宅に泊め、スキーづくりの奥深さを聞くうちに刺激を受け創業を決心した。
大正・昭和にかけて「地球印西村スキー製作所」、「鈴木スキー製作所」、「小野津スキー木材店」が次々に開業。やがて品質の評判も高まり、スキーづくりが本業となり、年産2000台を超える工場も出てきた。名寄産のスキーが、樺太、旭川、札幌にも進出し、東京のデパートで販売、カナダへ輸出された時代もあった。
名寄は学校教育にスキーを導入したのも早い。1922(大正11)年に旧制名寄中学校(現北海道名寄高等学校)、1927(昭和2)年に名寄高等女学校が開校し、創立間もなくスキー大会が開かれている。名寄中学では、昭和初期から木工機械、帯鋸盤、研磨盤、スキー先曲(はなま)げなどが整備され、工作教育としてスキーづくりが開始された。
戦後、佐藤徹雄教諭が赴任すると、その熱心な指導により学校でのスキーづくりが活発になった。電熱板を用いる合板スキー製作やスキー板の芯材研究も進められ、1日20台のスキーを生産するなど、その技術力には定評があった。1961(昭和36)年1月18日付の北海道新聞に「質量とも“工場”なみ」の見出しで、名寄高校工作部の活動が紹介されている。
やがて佐藤教諭は、冬の健康増進のため「歩くスキー」に注目し、1977(昭和52)年、ゴム長靴で手軽に楽しめる子供用歩くスキーを開発した。「ピヤシリスキー板」「歩くスキー締め金具」「長靴兼用歩くスキー靴」の3点セットを道内・新潟メーカーで生産、地元企業から売り出した。主に道内、東北、北陸で販売されていた。「僕もこのスキーで遊んだ。いま、ボランティアで子どもたちにスキーを指導しているのも、楽しかった記憶と上質な雪があるから」と、名寄市北国博物館館長の吉田清人さん。
●名寄市北国博物館
名寄はなぜ寒冷で雪が多いのか。人々はいかに寒さを防ぎ、雪とともに暮らしてきたのか。名寄の自然と歴史を学びながら北国を楽しむための博物館。博物館前の旧国鉄名寄本線の線路上には、全国唯一残されたSL排雪列車「キマロキ」が野外展示されている。
北海道名寄市緑丘222番地 TEL:01654-3-2575
詳細:WEBサイト
サンピラーやダイヤモンドダストも見える!!
名寄ピヤシリスキー場
サンピラー国体記念第14回サマージャンプ大会/2016年07月31日
日本で一番早い冬季公式戦がおこなわれる!!
名寄市ピヤシリシャンツェ
FIS公認クロスカントリーコースがある!!
なよろ健康の森
冬はカーリング大会や体験もできる!!
北海道立サンピラーパーク