港を囲むように高台で形成されている室蘭は、埋め立て地を走る国道を通り過ぎるだけでは気づかないが、実に坂道が多い。室蘭の語源となる坂を見ておきたくて、郷土史家・伏木晃さんと室蘭ICで待ち合わせをした。さっそく、JR崎守駅方面に向かうと、拍子抜けするほど小さな坂の下に「ムロラン地名発祥の坂」の標識があった。先住民族のアイヌは、この坂を「モ・ルエラニ(小さな下り坂)」と呼んでいたという。
坂を上ると元仙海寺が右手にある。昔、この坂の南側は海岸で、内浦湾(噴火湾)対岸の砂原まで渡海船が出ていた。モ・ルエラニは伊達方面から入る唯一の道、坂を下りた一帯は山越えをして幌別方面に通じる要衝の地であった。1805(文化2)年頃、この地に幕府直轄の会所や通行屋が置かれ、荷物の運送や宿場として駅逓、商店などが建ち並ぶようになった。伏木さんが「あまり知られていないが、江戸時代に伊能忠敬が測量した道が残っている」と、民家の横から入る山道を教えてくれた。時空を超えて、歴史を目撃しているようで感慨深い。
明治維新後、この地方最大の賑わいの地となり、「モロラン」(現・崎守町)と呼ばれるようになった。しかし、1872(明治5)年、現在の緑町に港が開かれると、開拓の拠点は旧札幌通(現・室蘭中央通)に移り、開拓使はその付近を「新室蘭」、モロランを「旧室蘭」とした。旧ではなく「元室蘭」「本室蘭」と改称してきたのは、この地に代々暮らす人にとって、崎守町が「室蘭の原点」だからだろう。
「日本一の坂」や「問屋の坂」のように、標識や説明板が置かれるほど有名ではないが、妙に惹かれるのが西小路町から測量山へと通じる「西小路の坂」だ。入り口に特別な目印はなく、室蘭中央通を白鳥大橋方面に車を走らせ、増岡米穀店(海岸町3丁目)の手前にある坂を左手に折れる。最初はそれほどきつくはないが、徐々に勾配率が上がっていく。
西小路町10まで上がると、丸窓のある古い木造の建物に目が留まり、振り返ると坂の下に室蘭港が見えてなんとも風情がある。室蘭出身の芥川賞作家・八木義德は『海明け』に「この西小路という町は一本の坂道をはさんで、その東側には陽の当たるひとたちが住み、その西側には陽の当たらぬ者たちがいやに鮮明な対照として住んでいる」と綴った。
車を降りて歩いてみることにした。坂の途中、掃除をしていた老人の話では「昔は、この坂を下りたところは、病院、郵便局、ホテルなどが建ち並ぶ市街地だった」とか。さらに上ると、「23%」の標識を横目に足がガクガクしてくる。灯油配達車が忙しなく、動き回る。作業員が「この時期、上れそうな日なら、注文がなくても配達して回る。雪が降ったら、上がれなくなるから」と笑った。転げ落ちそうな急な坂を喜々と散策するなんて、不謹慎に思えてきた。されど、絶景なり。
室蘭プリンスホテルの駐車場とカフェ英国館の間を測量山に向かって上がるのが「幕西の坂」。住宅の合間に何本もの階段坂があり、なんとなくそそられる。その歴史をまったく知らなければ、路地裏の奥へ奥へと誘われることに抵抗はない。しかし、朽ちかけながらも崖にへばりついた廃屋から異様な空気を感じ取る。あれは、なんだ?
1895(明治28)年、札幌通沿いに点在していた料亭や貸座敷が集約され、「幕西遊郭」が誕生した。幌内から石炭を運ぶ鉄道が敷かれ、室蘭港から石炭を海外へ輸出し、飛躍的に発展した時代だ。最盛期には、幕西を中心に町内に料理店78軒、貸座敷13軒がひしめいた。歴史には必ず光と影がある。八木義德の出生地は、幕西の坂から入り込んだ小路にある。料亭「常盤」で、外科医の父・田中好治と芸妓の母・八木セイは出会った。八木文学は、その複雑な境遇から生まれたといわれている。