鎖国時代に英国船が入港していた
太平洋と内浦湾の境に絵鞆半島が突き出し、天然の良港を持つ室蘭には、縄文時代から海の民が存在していた。骨製の釣り針や銛頭が出土した絵鞆遺跡からも、アイヌ語由来の地名からも、恵まれた湾であったことが想像できる。1600年頃、松前藩はアイヌとの交易のため絵鞆岬に運上屋を置いた。蝦夷地の上陸地として交通の要路となり、弁財船(江戸時代の商船)の出入りも盛んだった。
1796(寛政8)年9月28日、英国船プロビデンス号が松前藩領下の絵鞆(室蘭)に来航し、ロバート・ブロートン船長は松前藩医の加藤肩吾と地図を交換している。10月1日に出港し、千島列島のシムシル島に到達したが、厳冬のためマカオに向かい冬を越すことにした。翌年5月17日に沖縄の宮古島沖で座礁沈没するが、マカオで体制を整えて8月12日、再び室蘭を訪れ、港内の測量を行っている。ブロートンは帰国後『北太平洋探検の航海』を出版し、有珠山や駒ケ岳のようすからボルケイノ・ベイ(噴火湾)と名付け、蝦夷地に良港があると世に広めた。また、絵鞆アイヌとも交流し、その風貌、生活習慣、和人との関係など、随所に書き残している。さらに、ブロートンはヨーロッパ人で初めて津軽海峡を横断、蝦夷地が日本の島であることを実証した。
農耕に頼らない開拓が、ものづくりのまちへ
室蘭の開拓者は、戊辰戦争で敗北した旧仙台藩。明治新政府は、北方ロシアからの防衛対策として、この地の支配を旧仙台藩角田領主の石川邦光に命じた。1870(明治3)年、邦光に仕えていた添田竜吉と弟の泉麟太郎が44戸51人を率いて、移住者第一陣として室蘭に到着した。早春の風まだ肌寒い4月6日のことだった。
室蘭は山の急斜面が海岸に迫る地形のため、農耕に頼らない開拓が必要だった。窮地を切り抜けるためヒグマやエゾシカを捕り、函館で毛皮を売りさばくこともあった。やがて現在の本輪西駅前付近に鋳物場を建て、生活に必要な鍋や釜を製造。製塩、養蚕、製網、製糸・機織りなど「ものづくりのまち室蘭」の礎が築かれた。
最も成功したのは「輪西氷」と呼ばれた製氷業である。コイカクシ川から水を引いて貯水場を作り、夏はコイ、ヤマメ、ウナギを養殖し、冬は水を凍結させ大阪方面に出荷。最盛期は長万部や白老からの出稼ぎもあり、述べ18172人の雇用を生み出した。
不可能を可能にする技術者魂あふれる
室蘭は北海道有数の重工業都市である。1887(明治20)年、英国のアームストロング社とビィカース社、北炭の3社合弁企業が日本製鋼所を創立。続いて輪西製鐵場(現・新日鐵住金)が設立され「鉄のまち」として発展してきた。1892(明治25)年8月1日、北海道炭礦鉄道が夕張や空知の炭鉱から石炭を運ぶ室蘭線を開通し、室蘭港は小樽に並ぶ石炭積み出し港として繁栄した。
現在、港を取り囲むように、JXエネルギー、新日鉄住金セメント、新日鐵住金、日本製鋼所、函館どつくなど重化学工業の工場群が建ち並んでいる。また、室蘭の「ものづくり」を支えているのは、大手に負けない技術力を持つ中小企業、日本独自の「感性科学」や「燃える雪」など独創的な研究開発を世界に発信している室蘭工業大学の存在も大きい。
一方、太平洋側には、全国でも数少ない鳴り砂がある「イタンキ浜」をはじめ、「金屏風」「トッカリショの奇勝」「地球岬」「マスイチ浜」「銀屏風」など、100m前後の断崖絶壁が14kmも連なる風光明媚な景勝地。崖の上に広がる丘陵地帯から工場群と大自然の対照的な絶景を360度楽しめるのも、室蘭の魅力である。
交通アクセス
- 札幌から(高速道央自動車道 登別室蘭I.C下車)約2時間
- 新千歳空港から(高速道央自動車道 登別室蘭I.C下車)約1時間
- 札幌から(JR室蘭本線特急 東室蘭駅下車)約1時間30分
- 函館から(JR函館本線特急 東室蘭駅下車)約2時間
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