石狩川と空知川に挟まれた豊かな地
滝川市は北海道のほぼ中央、空知地域の石狩川と空知川が合流する平野に位置する。もともとこの地に住んでいたアイヌが、1856(安政3)年5月に訪れた幕末の探検家・松浦武四郎を案内し、蝦夷地(北海道)内陸部の探検に協力した。『石狩日誌』には、その詳細な記録や地名の語源となった空知滝の絵が描かれている。
マスやサケ漁、クマやエゾシカの狩猟などに適し、生活環境がよく、舟の発着も便利だった川沿いに、アイヌ語ゆかりの地名をいくつも残す。江部乙(えべおつ)の語源「ユペ・オッ(チョウザメ・たくさんいる)」や「イペオッイ(魚が・多くいる・所)」からも、豊かな土地であったことがうかがえる。
1869(明治2)年、北海道に開拓使が置かれ、やがて幌内炭山が開坑されると、手宮~幌内間に石炭輸送の鉄道が開通し、囚人による道路開削、石炭採掘が始まった。1886(明治19)年5月、道庁の高畑利宜(たかばたけとしよし)が道路測量のため、三浦米蔵が道路開削の工事関係者に物資を供給するため、空知川の右岸と左岸にそれぞれ住み、その後、駅逓取扱人や渡船を始めている。
屯田兵が力を入れていたリンゴ栽培
滝川村が設置されたのは1890(明治23)年。山形、山口、佐賀県などから北方警備と開拓のために屯田兵が440戸、4年後に江部乙に400戸が入植した(滝川市と江部乙町は1971(昭和46)年に合併)。当時、丸井今井呉服店(のちの丸井今井百貨店)滝川支店が、小樽より先に開業していたほど、開拓事業への期待も高かったのだろう。
その屯田兵の中には、1889(明治22)年、暴風豪雨に襲われ、奈良県から現在の新十津川町への移住を決意していた十津川移民もいる。石狩川の右岸に渡る前に滝川の屯田兵屋で越冬し、632戸のうち92戸が滝川屯田兵に応募した。翌年の春から開墾し、馬鈴薯、麦、粟、豆類など栽培したのが、この地での農業の始まりだ。
滝川のリンゴ栽培は1891(明治24)年から始まった。寒冷な気候でも栽培しやすく、苗木の代金は毎月の給与から月賦で支払えばよかったので、各戸で少なくとも30~50本のリンゴを栽培。生産量は年々増加し、1902(明治35)年頃から札幌や小樽、旭川、天塩、北見、十勝からも商人が買い付けに来るほど盛況だった。1905(明治38)年、北海道農産物品評会に出品して1等賞を勝ち取り、余市のリンゴ生産者からも恐れられていたという。
美しい農村で「理想の田舎をつくる」
農家の副業として滝川で羊が飼育され始めたのは1913(大正2)年。政府の「緬羊百万頭計画」に基づき、1918(大正7)年に滝川種羊場が開設されてから、羊毛だけでなく、羊肉の食べ方も研究されるようになり、誕生したのが北海道名物ジンギスカンだ。滝川ではタレに肉を漬け込んでから焼く食べ方が定着した。
作付面積日本一を誇る菜の花畑をはじめ、農村の美しい風景も滝川の魅力のひとつ。赤とんぼが舞う田園、林檎が実る丘陵地帯など、北海道を代表する日本画家・岩橋英遠(いわはしひでとお)を育てた原風景がそこある。世界的な彫刻家・五十嵐威暢(いがらしたけのぶ)がNPOアートチャレンジ滝川を起ち上げ、「理想の田舎をつくる運動」として活動するアート塾やイベントにも注目が集まる。
また、丸加高原には難病とたたかう子どもたちが、大自然の中で楽しく過ごせるよう、特別に配慮されたキャンプ施設や体験プログラムも充実。医師、看護師、ボランティアによる医療的バックアップもする「そらぷちキッズキャンプ」の活動支援など、誰にでもやさしいユニバーサル都市としての可能性を広げている。
交通アクセス
- 札幌から(高速道央自動車道 滝川I.C下車)約60分
- 旭川から(高速道央自動車道 道央自動車道 滝川I.C下車)約30分
- 札幌から(JR函館本線特急 滝川駅下車)約50分
- 千歳から(JR千歳線・函館本線特急 滝川駅下車)約90分
- 旭川から(JR函館本線特急 滝川駅下車)約30分
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