正式名称は、旧二風谷青年会図書館。歴史は想像以上に古く、1911(明治44)年に建てられた。北海道教育会が札幌に附属図書館を設置したのが1899(明治32)年。4年後、道内初の公立図書館ができたのは意外にも枝幸町で、天体観測に来た米国人トッド博士が洋書を寄贈したことから始まった。函館では1907(明治40)年に岡田健蔵が自宅店舗内で起ち上げた私立図書室が、市立函館図書館の基礎となっている。そんな北海道の図書館創生期を調べてみると、アイヌコタンの図書館とは、なかなか貴重ではないか。
当時、小学校を卒業した少年たちは「二風谷青年会」として、畑を耕したり、学校を建てたり、道路工事をしたり、まちのために働きながら、夜学会を開いて勉強もしていた。この図書館も二風谷小学校新築の際、残った材で彼らが建てたものだ。昭和初期まで補習教室や図書館として使われ、戦後は教員住宅、季節保育所、青年団の集会所として利用、現在は外観しか見ることはできない。
そもそも平取に和人による学校教育がもたらされたのは1880(明治13)年。民家を借りて佐瑠太小学校平取分校が開かれ、1892(明治25)年には二風谷にも小学校ができた。当初は生まれた子どもの命名、手紙の代筆、役場との交渉、地域のとりまとめも先生の仕事。たった一人でこなしたというから驚きだ。
二風谷小学校の前庭に、アイヌ歌人・違星北斗(いぼし・ほくと)の歌碑がある。その書は言語学者の金田一京助、デザインは建築家の田上義也、なんと贅沢な歌碑だろう。
バチェラー八重子、森竹竹市と並ぶアイヌ歌人として紹介されることも多い。生活の苦しみを歌った口語短歌をよく詠み、若くしてこの世を去ったこともあり、放浪の歌人・並木凡平からも「アイヌの啄木」と愛された。歌碑は1968(昭和43)年、二風谷小学校の改築記念に、北斗を敬愛する人々によって建てられたものだ。
沙流川は 昨日の雨で 水濁り コタンの昔 囁きつつ行く
平取に 浴場一つ ほしいもの 金があったら 建てたいものを
余市出身の北斗は、小学校の担任の影響で俳句を始め、アイヌとしての葛藤を短歌で表現するようになる。23歳で上京し、一流の知識人や文化人と出会う中、京助から教えられた知里幸恵の『アイヌ神謡集』を読み衝撃を受ける。幸福で安定した東京生活に終止符を打ち、道内各地のコタンをめぐりながら、アイヌの地位向上のために働く決心をする。
1927(昭和2)年、平取教会に勤めていたバチェラー八重子を北斗は姉のように慕い、バチェラー幼稚園を手伝いながら、同じ牧師館に暮らしていた。行く先々のコタンで貧困や差別に苦しむ同族の姿を目の当たりにし、時には酒におぼれる姿を見て失望することもあったが、その生涯を閉じるまで、アイヌの誇りを高らかに叫び、同族の自覚と団結を訴え続けた。
●違星北斗研究会おすすめサイト
違星北斗.comコタン http://www.iboshihokuto.com
金田一京助というと、国語辞典を思い出す。貧乏学士時代、同じ下宿に石川啄木がおり、部屋代や食費も京助が面倒をみていたほどの仲だった。東京帝国大学時代、樺太アイヌの聞き取り調査を行ったのがアイヌ語研究の始まり。沙流川流域のアイヌから数多くの口承文芸を筆録し、アイヌ言語学者として生涯研究を続けた。
物もいわず 声も出さず 石はただ 全身をもって おのれを語る
萱野茂二風谷アイヌ資料館前庭の石碑に刻まれているのは、京助が平取を訪れた際に詠んだ一首。京助は「アイヌ文化は、決して劣ったものではない」と、コタンの人々と真摯に向き合い、知里幸恵、知里真志保、萱野茂などの才能を引き出した。
萱野茂の著書『アイヌの礎』(朝日新聞社)には、京助と父とのエピソードが次のように綴られている。
●金田一京助のことがわかるサイト
盛岡市先人記念館 WEBサイト