歩いてみたら、出会えた、見つけた。

暮らしびと

東京から平取に嫁いだ理由

「いまもアイヌがいることを知らなかった」
そんな大学生が一人旅で二風谷を訪れ、この地に暮らす人々の温かさにひかれ、
ここで生きていくことを決めた。
矢島あづさ-text 露口啓二-Photo

義父の一信さん、義母の元子さん、浩林さん、祐仁(ゆうじん)くん、夫の久雄さん、楓栞(ふうか)ちゃん

二風谷にアイヌがまだいる!?

東京外国語大学に入るまで、アイヌは昔の人だと思っていた。中学・高校の教科書にアイヌ文化について2ページくらい書かれていたけれど、受験に関係ないので先生が飛ばした記憶がある。大学のワンダーフォーゲル部で北海道を訪れ、いまもアイヌがいることを知り興味を持つ。その後、一人旅を続けるうちに中央大学の学生に出会い「アイヌのことを知りたければ、二風谷に行け。萱野茂さんの資料館を見てこい」と言われた。1993年、19歳の夏だった。

さっそく、札幌の友人宅で「二風谷」の場所を地図で教えてもらった。JR日高本線に乗り富川駅までたどり着いたが、辺りを見回しても「二風谷」の文字はどこにも見当たらない。バスに乗るお金もない。リュックを背負い歩いていたら、車が止まってくれたので「二風谷に行きたい」と告げると、「何にもないよ」と笑われた。

「日本人じゃない」私と同じ

二風谷を訪れたのは、国際先住民年の会議が終った、ちょうど4、5日後。どことなく興奮冷めやらぬ雰囲気が感じ取れた。萱野茂二風谷アイヌ資料館前で、アイヌの衣装を着た人を萱野さんが撮影していた。明らかに日本人と違うその顔立ち、風貌に驚いた。この人も日本人じゃない!!

私は在日中国人の三世。父方は浙江省、母方は福建省の出。父方の祖母の親は貿易商を営み、日本と中国を行き来していた。神戸生まれの祖母は中国で結婚後、東京の新宿、銀座、四谷で中国料理店を開き、四谷の店を父が継いだ。一方、母方の祖父は、赤坂にあった皇室御用達の中国料理店の料理人として日本に招かれ、皇居にも出入りしていた。

日本で生まれ育っても国籍は違う、異質な存在。そう見られることに疑問を抱き、寂しさも感じて生きてきた。差別を受けた記憶はないが、海外研修に行きたくても、ビザが取れないこともあった。自分のアイデンティティーもわからない。そんな学生時代に、二風谷で萱野茂さんと出会った。

結婚の決め手は、人の温かさ

町立二風谷アイヌ文化博物館も閉館時間まで見学し、アイヌの世界に惹きこまれる。その夜、野宿するつもりだったが、萱野さんは弟が営む民宿に無償で泊まれるよう手配してくれた。宿の夕食時間が過ぎていたので、弟の輝一さんが食堂まで連れて行ってくれたときのこと。車中、萱野さんの父親が歌うユカ(神謡)のテープを聞かせてくれ、その日本語とはまったく違う言葉に衝撃を受けた。

しかも、食堂は定休日。通りすがり、たまたま庭で焼肉をしていた川奈野宅で夕食をごちそうになるとは、予想もしていない展開だった。そこが翌日からの滞在先となり、休みを利用して何度も訪れる家になった。

大学卒業後、子どもの本を作る出版社に勤め、アイヌを含めた先住民族シリーズの企画を出したが「売れない」と却下され、28歳のとき、アイヌ文化を研究するため大学院に進む。文化人類学のスチュアート ヘンリ先生と出会い、研究対象としか見ていない学者が多い中、民族に対する考え方、スタンスを学べたことは大きな財産。

大学院も修了間近のある日、「うちの久雄と結婚しなさい」と、いまの義母に言われた。これからの進路で悩んでいるのを察したらしい。父を亡くした時も親身に心配してくれ、本当の娘のように接してくれた。ただ、東京を離れるにはそれなりの覚悟が必要だった。決め手は、旅人の自分を優しく受け入れてくれた、このまちの人の温かさだ。

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「平取は子育てしやすい環境」と浩林さん。1歳の祐仁くんは、やんちゃ盛り。まだ、会話はできないが目力の強さに意思を感じる

生活の中でアイヌの精神を感じる

結婚して最初の1カ月くらいは「この山の風、この木…」と自然に囲まれて暮らすことに酔っていた。平取は道内でも暖かい地域だが、それでも冬の寒さ、雪道の運転、この地で生活することの現実を思い知り、3年くらいは苦しかった。いつも窓の外を見て「私の東京…」と嘆いていた。

そのうち東京よりおおらかに、幸せそうに笑っている人が多いことに気づく。しかも、ここでは物々交換が成り立つ。鮭20匹、シカ肉10㎏、カボチャ30個と、おすそ分けで考えられない量をいただく。料理人の娘なので、工夫しておいしいものを作るのが楽しい。この辺の人は保存食の知恵がすごい。私はできるだけ、それを引き継ぎたい。

生活の中で会話を交わすと、ハッとするような大切なことを教えてくれる。たとえば、エカシ(古老)が子どもの頃は、シンヌラッパ(先祖供養)の儀式をやるときは「明日やるぞ~」と、コタン(村)を一回りしたとか、数十年ぶりにイヨマンテ(熊祭り)をするときも、人から人へ、コタンからコタンへと話が伝わり、かなり離れた地域のアイヌも集まった。儀式そのものが人々の交流の場でもあったことがわかる。

アイヌ語を話すなと言われた時代でも、酔っぱらうと、ついホリッパ(踊り)が出てしまうのは、心がアイヌだから、とか。学説ではなく、地元の人から聞く話に説得力がある。アイヌが暮らすまちだから、いろいろな人がやってきて、私も生かされていると感じる。他の田舎まちなら、これほど長く暮らせなかったと思う。(談)

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毎年、農家から夏の終わりのトマトをいただき、トマトソースを山ほど作る。「8月と9月では、微妙に味が変わるんですよ」と浩林さん。今日はそのソースでピザを焼いた。「日高コンブも、トマトソースと一緒に煮るとやわらかくなるの。だから、私はカレーにも、シチューにもこのソースを入れるの」

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