歩いてみたら、出会えた、見つけた。

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露口啓二「地名」を撮る

北海道にはアイヌ語を起源とする「地名」が多い。
アイヌが耳から耳へと伝えた地名の音、
そこには、幕末の探検家・松浦武四郎が記録した
カタカナでは残すことのできない豊かな表現力があった。
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沙流川の写真

フォトグラファー 露口啓二

1846年から1858年までの足掛け13年間で、6度にわたり当時蝦夷地と呼ばれていた北海道や樺太、択捉島までを踏破した松浦武四郎は、それらの土地の地名を記録し、『東西蝦夷山川地理取調図』として出版しています。ここでお見せする写真は、その「取調図」をもとに、沙流川沿いの、沙流川に流れこむ川や沢を撮影したものです。

アイヌの社会は、ながらく無文字社会でした。それは彼らがそれを選択した結果です。アイヌ民族は、自らの地名を文字で表記することは(おそらくは自分たちの文化としては)なかったと思われるので、武四郎は、地名の音を耳で聴き、それをカタカナで表記したのでしょう。ですので、武四郎が記録したカタカナと、もとのアイヌ語地名の音とはかなりのズレがあり、もとのアイヌ語地名の音はカタカナ表記の音よりはるかに豊かな表現力をもっていたと思われます。それはアイヌ文化の口承文芸(カムイユカ、ユカ、ウウェペケなど)や伝統歌(ウポポなど)の、文字化された文学の世界と異なった豊かさをもった世界につながっているだろうというのが、沙流川沿いの地名を撮った根拠になっています。もちろん、写真に音は写りませんが。

これらの写真は、川や沢の風景を撮ろうとしたのではありません。水の流れる音や風の音、あるいは木々の擦れ合う音、大地の震動などを全身で感応しながら、そこを飛びまわったり、地面を這ったりしている、小鳥や虫になったつもりでご覧いただければうれしいです。

西ヨーロッパを中心としたエクリチュール(書き言葉)の文化と正面から格闘した、ロラン・バルトやジャック・デリダなどの批評家や哲学者が、アイヌ社会のような無文字の文化のなかで育ったとしたら、どんな哲学を描いたかという想像はたんなる妄想でしょうか。

二風谷を拠点に、アイヌ文化の研究と継承に多大な功績を残し、国会議員を務められた萱野茂氏が、アイヌ語地名について語られた言葉をご紹介いたします。「二風谷ダム裁判の記録」からの抜粋です。

何故、このようにアイヌが自分たちが生活している範囲に丁寧に名前をつけたかと言えば、狩猟民族であったからであります。
たとえば、狩りに山へ行き、シカをとり、あるいはクマをとった場合、それらの肉を一人で背負って帰ることができないときに、家族や村人に肉を取りに山へ行かせます。そのときに、どの沢の、どの大地に肉を置いてきたかをはっきり教えなければ、肉のあるところへ家族や村人は行くことができないのであります。そのような理由から、アイヌたちは自分たちの行動範囲に、まるで自分のたなごころを指すかのように名前をつけ、それを若者たちへ教え、その地名を覚えることが狩猟民族の心得の第一歩であったのであります。

一三十数年昔に三重県三雲町出身の、松浦武四郎という方が当時のアイヌモシリ=アイヌの静かな大地、へ来てアイヌから聞き書きをした地名が残っています。
それを北見市まるせっぷの秋葉實さんという方が調べると、約八千カ所あったという。私が生まれ育った二風谷の地名を見てみると、一四カ所だけであり、そこで私が知っている地名は七二カ所ということは武四郎が書き残した五倍はあることになる。
と、いうことは八千カ所の五倍の四万カ所のアイヌ語地名があると考えられます。

出典:『二風谷ダム裁判の記録―アイヌ民族ト゜ン叛乱』萱野茂 田中宏 編 三省堂

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