鉄道開通とともに始まった道北の木材景気
道北地方の中心に位置する名寄市は、天塩川と名寄川に挟まれた盆地。夏は約30℃、冬は約-30℃、夏冬の寒暖の差が60℃もある。もち米をはじめ、アスパラガス、カボチャなど、おいしい作物が育つ農村地帯だ。最初の鍬を入れたのは1900(明治33)年、山形県から移住してきた人々である。
当時、エゾマツをはじめ、ドロノキ、アカダモ、ナラなどの巨木がうっそうと茂る密林で、唯一の交通機関は天塩川の川舟しかなかった。1903(明治36)年、旭川から名寄まで「天塩線」として鉄道が敷かれると、豊富な木材に目をつけた造材業者が道内外から次々とやって来て、開墾の邪魔をしていた原始林は“森林の宝庫”として脚光を浴びた。
エゾマツは別名“天塩松”とも呼ばれ、海外へも輸出されていた。造材業の最盛期は、1906(明治39)年~1918(大正7)年ごろまで。中川や音威子府、雨竜など、周辺の山林地帯から木材が集結し、名寄駅周辺には巨万の富となる木材が山積みされていた。木材景気をリードした西田一族の私邸(現・雪あかり館)や1909(明治42)年に建てられた名寄教会が、当時のなごりを伝えている。
農家の覚悟から生まれた「もち米」
名寄市は、もち米作付面積日本一のまち。水田の約9割でもち米が作られ、北海道で生産されているもち米の3分の1が名寄産である。8人の農家が集まり、本格的なもち米栽培に着手したのは1970(昭和45)年。政府が米の生産を調整する「減反政策」を開始した年だ。当時、北海道産のうるち米は評価が低く、中でも稲作最北端の地であり、気象条件に恵まれない名寄は、大打撃を受けた。もち米の栽培は、そんな逆境から立ち上がるための選択だった。
主食として普段食べられているうるち米と、加工されることの多いもち米が混ざると品質が落ちてしまう。稲作農家は「自分たちが毎日食べる米は買ってでも、うるち米が混ざらないもち米を作ろう」と覚悟を決め、1979(昭和54)年には、すべての水田をもち米に切り替えた。その後、隣の風連町(現・名寄市)でも、もち米の作付が増えていき、日本一のもち米生産団地となった。
名寄産のもち米は軟らかく粘りがあり、時間が経っても硬くなりにくいのが特徴。これが受け入れられ、日本有数の銘菓である伊勢名物の「赤福」をはじめ、岡山名物の廣栄堂「元祖きびだんご」、大手コンビニメーカーの「赤飯おにぎり」など、全国でも有名な商品に、名寄産のもち米が使われるようになった。日本一のもち米を地域の誇りにするためにも、「もっと!もち米プロジェクト」も展開している。
『続々・なよろ百話』株式会社名寄新聞社 発行
- 札幌から(高速道央自動車道 士別・剣淵I.C下車、国道40号)2時間45分
- 札幌から(高速バス)3時間5分
- 札幌から(JR宗谷本線)特急2時間15分
- 東京→旭川(飛行機)1時間45分
- 旭川空港→旭川駅(バス)35分
- 旭川から(JR宗谷本線)特急59分