尾張徳川の旧藩士が開拓した
明治維新により失職し、生活に苦しんでいた旧尾張藩士族。1878(明治11)年、17代目当主の徳川慶勝(よしかつ)が旧家臣たちをユーラップ(現・八雲町)に集団移住させ、本格的な開拓を進めた。開拓使から150万坪の土地を無償で払い下げてもらう代わりに、移住者の生活や開拓費用を徳川家が負担するという、民間資本による組織的北海道開拓の先駆けとなった。
徳川家開墾試験場は西洋農具を使いながら農地を広げ、士族移民が完全に独立するまでの34年間、手厚く支え続けた。やがて小作農を受け入れ、山林経営も行う徳川農場へと発展。19代目の義親(よしちか)は頻繁に八雲を訪れ、酪農への転換や土地改良、生活を豊かにする“木彫り熊”づくりの普及も積極的に行った。1948(昭和23)年に閉場するが、現在も徳川が起ち上げた八雲産業(株)は植林や種苗事業を引き継いでいる。
雲石峠を越えると、さらに歴史は遡る
旧尾張藩士が最初に上陸したのは、太平洋側のユーラップ川河口付近だが、日本海沿岸の熊石地域には、鎌倉時代から和人が定住していたという。ニシン漁で繁栄した江戸時代、松前藩の経済を支える重要な漁場だった。1691(元禄4)年、松前藩は和人の土地とアイヌの土地を分け、境界に熊石番所を設置。当時の日本最北端の地として、北へ出入りする人の検問や交易の監視などを行っていた。
北前船がもたらした伝統を継ぐ旧熊石町と尾張藩徳川家により開拓された旧八雲町が合併したのは2005(平成17)年。両地域を結ぶ国道277号、通称八熊線にある雲石(うんせき)峠を越えると、同じまちと思えないほど歴史や文化、気候風土が異なる。しかし、徳川家康に服すことで蝦夷地での交易管理権を得た松前藩の成り立ちを考えると、不思議な縁を感じずにはいられない。
農家と漁師の後継者が多い
明治末期から大正前半期はジャガイモから作った「八雲片栗粉」の製造が盛んで、全国一の高値で取引されていた。しかし、第一次世界大戦後に価格が大暴落し、離農する農民も相次いだ。地力を失った耕作放棄地を再生するために牛を導入し、フンを大地の肥料に利用する有畜混合農業、やがて酪農の道へと歩み出した。第二次世界大戦後には多くの若者をデンマークなどで研修させ、「酪農は八雲に学べ」といわれるほどの先進地だった。
太平洋と日本海の二つの海を持つ八雲町は、水揚げされる海の幸もバラエティ豊かだ。噴火湾ではホタテの養殖、サケ、カレイ、コンブ、ホッキガイなど、日本海はサクラマス、真イカ、スケトウダラの宝庫で、熊石海洋深層水でエゾアワビも養殖している。太平洋側南部にある落部(おとしべ)地区は稲作や畑作も盛んで、農家と漁師との付き合いが深く、どちらも後継者に恵まれている。
- 札幌から(高速道央自動車道 八雲I.C下車)3時間30分
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